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2014年01月22日

小野田寛郎さんが亡くなりましたね。

2014.01.22



小野田寛郎さんが亡くなりましたね。



フィリピンのルバング島で
戦争が終わったとも知らず、
軍規に従って、
1974年まで一人で戦い続けた「最後の侍」
小野田寛郎さんが亡くなったそうですね。


もうとっくに、戦争は終わっていたと思っていたのに、
1972年にはルソン島から、
横井庄一さんが帰国、
そして、その2年後の小野田さんの帰国。


「平和ボケ」していると言われた日本人が
改めて「戦争とはなにか」について
考え直す非常に良いきっかけになりました。






わたくしたち八十路世代にとって、
戦争はとても大きな意味を持っています。

だって、
生まれたときから、
戦争とは縁が切れない世情だったからです。

第2次世界大戦が始まったのが
1939年9月1日。

これは、昭和14年ですから、
わたくしは5歳。


そして、
この戦争に日本が参加した太平洋戦争の始まりが
1941年12月8日の「真珠湾攻撃」。

これは昭和16年ですから、
わたくしは7歳。


日本が戦争を終結したのが
1945年8月15日。

これは昭和20年ですから、
わたくしは11歳。


つまり、
「わたくしの小学生時代=戦争」
という図式になるわけです。


子どもとして、
遊んだり、勉強したり、
そして、運動をしたり、
こういう一番大切な時期を「戦時下」にあって、
今になって、
考えれば考えるほど、
言葉にもならない思いが湧いてきますね。


当時の小学校は
「国民学校」と言いましたわねえ。

大した勉強もせず、
お国のために戦っている兵隊さんに
「慰問袋」を送ってあげるのですが、
その中に入れる「綴り方」を書きましたね。


あら、そう?

ご存じないわよね。

「綴り方」ってね、
今で言うところの「作文」のことですよ。


季節の行事のことや、
野山や村・町の様子、
子どもの遊びや学校の様子など、
いろいろ書きましたねえ。

それから、
そら豆や大豆を煎ったものなども
その「慰問袋」には入れましたよ。


ひょっとしたら、
小野田さんや横井さんの手元に
届いたりしたかもしれませんね。



おや、さすがねえ。

あなた、
「千人針」なんて言葉もご存知なの?


「慰問袋」や「千人針」については
また別の機会に書きますわ。



人間は生まれてくるのも、死ぬのも一人。


とはいうものの、
戦争は特に、
わたくしたちに「孤独」を感じさせました。

わたくしの幼少時に過ごした本家、
そこで一緒に過ごした従姉夫婦の部屋の天井には、
戦争が終わってからずっと、
戦闘帽がかけられてありましたよ。

従姉の夫は本家に養子に来て
すぐ出征しました。

確か、大陸に行ったのですが、
脚を撃たれて大怪我をし、
傷痍軍人となって、一度帰ってきました。

しかし、
戦局の悪化によって、
今度は南方に行かされたのでした。

彼は無事に生きて帰ってきましたが、
びっこをひきながら、
働き詰めの65年の生涯を終えました。


わたくしは
あの「大日本帝国陸軍の戦闘帽」を思い出すたび、
彼の「孤独」を背負った後ろ姿が目に浮かぶのです。



尊い命をかけて、
わたくしの祖国日本のために戦って下さった、
小野田さん始め多くの兵隊さんたち、
そして、
兵隊ではないけれど失った多くの命や犠牲。



戦争のない、本当の平和。

戦争を肌で知っているわたくしたちの世代は
特に、
これを願ってやみません。


ではまた、ごきげんよう。。。








posted by 八十路小町 at 06:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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