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2015年02月27日

萩本欽一さん(欽ちゃん)が駒沢大学に合格したそうですよ。

2015.02.27.

萩本欽一さん(欽ちゃん)が
駒沢大学に合格したそうですよ。




萩本 欽一さんといえば、
浮き沈みの多い芸能界でも息長く活躍しているので、
テレビをあまり見ないわたくしでもよく知っています。




というのも、
坂上二郎さんと組んだ「コント55号」が
ちょうどピヨ子の子供時代に大活躍していたし、
その後も一人でテレビに出て有名だったからです。









その欽ちゃんも1941年5月7日生まれで、
今は73歳になったそうです。



それが駒沢大学仏教学部の社会人入試に合格し、
この4月からは大学生になります。



去年3月に東京の浜町にある明治座の公演を最後に、
大劇場から引退して、
それから猛勉強をしていたそうです。



入試は今年の1月、
そして、2月26日に合格通知を受け取りました。



欽ちゃんは

「認知症対策のつもりで勉強した。
本当にうれしい。
大学には一日も休まずに行く。
野球部にもはいりたい」

と話しているそうです。










欽ちゃんはカメラ製造販売をする家に生まれましたが、
商売が大成功してはお父さんがお妾さんを作り、
低価格カメラの時代になっては、
倒産夜逃げ、家族離散などという、
波乱の時代を送ったそうです。


「妾を持つのは男の甲斐性」という母に言われて、
度々妾宅に行き、
父とお妾さんと一緒に浅草に行ったのが芸能に興味を持つきっかけでした。


そして、
極貧生活の中にあって、
映画の中で、
面白い人が面白いことをしてお金をもらっている芸人を見て、
どうしても芸能界に入りたいと
中学卒業で喜劇役者の大宮敏充のところに弟子入りに行きます。


しかし、
高校は出ておくようにと諭されて、
高校を出るとすぐ、
浅草松竹演芸場へ向かいますが、
直前に気が変わって東洋劇場に入団し、
これがコメディアンの出発だったそうです。









ところが、
演出家からは

「君は才能がないからやめたほうがいい」

と言われてしまって、止めようと思いましたが、
先輩の池信一が演出家を説得してくれたのです。


「萩本は才能がない。

しかし、これほどいい返事をする若者はいない。

あいつの“はい”は気持ちがいい。

“はい”だけで置いてやってくれ」




後に、
その演出家は欽ちゃんに言いました。

「芸能界はどんなに才能がなくても、
たった1人でも応援する人がいたら必ず成功する。

もしかしたら、
お前を止めさせないでくれという応援者がいる。

お前は成功するから頑張れ」




その言葉に奮起して、
努力に努力を重ねたので、
今があるのだということです。









欽ちゃんの信念は

「正しい箸の持ち方をしていることは親の躾を素直に受け入れている証拠であり、
その素直さが成長には不可欠である」

というもので、
弟子入り希望者は必ず食事に連れて行くそうです。



また、
師匠の東八郎の教えを守って、
変わった芸名はつけない、
下ネタはしないと言います。



今はアナウンサーでさえ破廉恥な服装をして、
媚を売るような時代になってしまいましたが、
ミニスカートは嫌いだとのことで、
レギュラーの共演者の女性にはミニスカートをはかないように要請していたということです。








また、
コンビを組んでいた坂上二郎さんが亡くなったのは
あの東日本大震災の前日で、
3月13日に営まれた那須塩原での家族葬には、
不通だった新幹線の代わりに、
JR宇都宮線とタクシーを乗り継いで、
東京から4時間かけて駆けつけたとのこと。



欽ちゃんという人は、
聞けば聞くほど、
人間的魅力の溢れる人物ですね。




4月からの学生生活もきっと、
若い学生のお手本になって、
世の中の人に大きな希望を与えてくれることでしょう。









さて、
欽ちゃんの通う駒沢大学の主なキャンパスは
東急田園都市線の駒沢大学駅にあります。



そして、
そのすぐお隣が「駒沢オリンピック公園」。



その名の通り、
オリンピックに縁のある場所です。



元々はというと、
東京ゴルフ倶楽部というゴルフコースで、
昭和天皇がイギリス王太子のエドワードと共にプレーした場所として有名だったそうです。



そして、
1940年にはここをメイン会場として、
東京オリンピックが行われるはずだったのですが、
これが太平洋戦争のために中止になりました。









戦争に敗けて、
国中がボロボロになった日本は懸命に努力して復興し、
悲願が叶ったのが、
1964年の東京オリンピックでしたね。



この時は千駄ヶ谷の国立競技場がメインの会場になりましたが、
この駒沢はサブ会場になって、
サッカー、バレーボールなどの競技をしました。



「東洋の魔女」と呼ばれた日本女子バレーボールチームが
ソ連をストレートで破って、
金メダルを取った試合が懐かしいですね。



このときのテレビの視聴率はある調べでは66.8%で、
スポーツ中継では歴代最高だったそうです。



もちろん、
わたくしたちも見ましたよ。



あの後のバレーボールブームも凄かったですね。



どこでもここでも
「回転レシーブ」
という言葉が聞かれたのですから。





「東洋の魔女」をご存知ないお若い方はこちらをどうぞ。







2020年の東京オリンピックには
日本人はどんな活躍をしてくれるでしょうか。



わたくしも夫も元気で応援観戦いたしますよ。



そして、
駒沢オリンピック公園にも行ってみたいと思います。




さあ、
わたくしも欽ちゃんに負けないように、
頭も体もトレーニングいたしましょう。








ではまた、ごきげんよう。。。





posted by 八十路小町 at 18:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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