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2017年02月27日

国民学校では授業で慰問袋を作りました。「慰問袋」の俳句。

2017.02.27.

国民学校では授業で慰問袋を作りました。
「慰問袋」の俳句。



先日は台湾から帰化した金美齢さんの「兵隊さんよ、ありがとう」で終わる名スピーチに感動しましたから、
今日は兵隊さんに送った「慰問袋」についてお話しましょう。



慰問袋とは、
戦地にいる兵隊さんたちに感謝し慰撫するために、
白い袋に色々な品物を入れて送る寄付のことです。



義和団の乱(1900年6月20日 - 1901年9月7日)のときから始まったそうですが、
「慰問袋」という名称は日露戦争中の1904年(明治37年)11月18日の官報で確認されたのが最初だということです。








慰問袋の袋は晒し木綿や手拭いを二つ折りにして手縫いをするのですが、
既製品もありました。



そして、その中に入れるものとしては、
ちり紙、手拭い、石鹸などの日用品、
シャツや腹巻きなど衣服付属品、
食料品、薬品、写真、絵画、お守り札などが代表的なものでした。



それに必ず添えるのは差出人の住所、氏名を記した手紙です。









慰問袋という制度の素晴らしいところは、
部隊の指定は出来ても、
それが誰に届けられるのかを指定できないところです。



というのは、
兵隊さんによってはその身の上によって、
なにか物や手紙などを沢山貰える人も貰えない人も色々あるからです。



色々な身分や立場の人が集まって軍隊に入り、
皆で一丸となってお国のために働いてくれるのですから、
どの人にもどの人にも頑張ってもらわなくてはなりません。



だからこそ、
送る側も、「誰それ」という気持ちよりも、「兵隊さん」にという気持ちを込めて、
慰問袋を作ったのです。



そして、
貰った兵隊さんたちは誰からどんなものを貰えるのかは、
袋を受け取って開いて見るしか分からないのですから、
まるで「びっくり箱」ならぬ「びっくり袋」のようなわくわくした気持ちがいっぱいだったことでしょうね。



辛い戦地の生活の中で、
誰でも平等に配られた「お楽しみ袋」はどんなに嬉しかったことでしょう。



どの兵隊さんも送ってくれた人に丁寧な返事の手紙をくれました。



それが縁で文通が続くと、
毎日の辛いお勤めにも励みが出るというものですね。



この慰問袋という仕組みを考え出した人は本当に天才だと思います。






慰問袋を コロムビア合唱団
https://youtu.be/JrMFTqMfKwU




そうそう、
どんな状況でもどんなことでも商売にしてお金を儲ける人はいるものですが、
製菓会社やお菓子屋さんや百貨店などが慰問袋に入れるためのお菓子や、
お菓子を詰め合わせた慰問袋を売り出して、
それがまたよく売れたのだそうです。



私は田舎住まいでしたから、
そんなものが売られているなんて知りませんでした。



中に入っていたお菓子は、
甘納豆、ボーロ、各種飴、金平糖、
氷砂糖、缶詰ゆであづき、羊羹、懐中お汁粉、ビスケットなどなど。



こういう既製品の「慰問袋」セットを購入する人も多かったそうですが、
やはり、兵隊さんが本当に喜んでくれたのは、
あまりお金をかけない手作りのもので、
特に、子どもたちが無心で作ったものは兵隊さんを一番笑顔にしたそうです。



こちらは正しい慰問袋の作り方の講義の映画です。


生きた慰問袋 昭和17年
https://youtu.be/XEGH9-p6TnY



そういうわけで、
わたくしたち子どもも国民学校で慰問袋を何度も作りました。



予め、日の丸や「慰問袋」という文字や住所氏名を書くための四角い枠などが印刷されてある白い布が
児童の一人ひとりに配られます。



それを糸と針でチクチク縫って袋にし、
口に紐を通して出来上がりです。



女の子だけでなく、
男の子も自分で縫うのですよ。



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次には、
中に入れるための図画工作や綴方と呼ばれていた作文を作製します。



誰しも戦争は嫌ですが、
もし日本が敗ければ、鬼畜英米がやってきて、
日本を植民地にしてしまうというのですから、
兵隊さんにはどうしても頑張って貰わなければなりません。



どの子もどの子も一生懸命に心を込めて絵を描き、
そして作文や手紙を書きました。



千羽鶴を折ったり、紙や布で人形を作ったり、
木や竹でおもちゃを作ったりもしました。



それから、
家から持ってきた食べ物などを詰めたのです。



食べ物と言っても、
田舎ですし、今のように便利な保存食品も手に入りませんでしたから、
大豆や蚕豆を焙烙で煎った煎り豆や、
お餅を切って乾かして作ったかき餅やあられを煎ったもの、
自家製の干し芋、焼き米など、
すぐ食べられるけれど、遠く戦地まで運んでも痛まないものを入れました。



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学校で作る慰問袋はどこの部隊のどの兵隊さんに渡るかも分からないので、
家族や親戚に送る分はまた別に作りました。



わたくしも親戚のおじさんに送りましたが、
ちゃんと葉書でお礼を貰いました。



昔の人は本当に筆まめでした。



今のように電話が普及してなかったし、
携帯・スマホもないし、パソコンもないので、
連絡手段としては手紙や葉書を書くしかなかったからです。



でも、
却ってその方が想いが通じ合ったような気がしますね。



雄弁な言葉よりも、手書きの一行が、
高価な品物よりも、粗末でも手作りの品物。



それを戦地の兵隊さんに届ける慰問袋ですが、
昭和18年から19年に廃止されてしまいました。



というのは、
その頃になると戦局も不利になってきて、
輸送船が次々に撃沈されて、その数が減ったことから、
積荷も戦いに必要性の高いものが優先されたからです。



また、
内地の物資も困窮してきたことに加えて、
強引に慰問袋を集めていた隣組や婦人会に対して批判が出てきたこと、
各地で空襲があって、もうそれどころではなくなったことも原因でした。



慰問袋を廃止せざるを得なくなった時期こそ、
兵隊さんたちは慰問袋を必要としたでしょうに、
本当にいたわしいことでした。



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さて、
「慰問袋」の俳句を探してみました。



秋風に小さき慰問袋託す

   中島斌男



ひと死にて慰問袋の独楽まひ澄む

   片山桃史



慰問袋とどきし新茶頒けあひぬ

   高島茂



土用干父の形見の慰問袋

   上杉マサ



茶の花や慰問の浴衣下がる頃

   北原白秋



小さき手に慰問袋や春近し

   田中二三子



あたたかや慰問袋に吾が血通ふ

   一星(ヒロ蕉雨会1938 年5月。ハワイ移民)



「兵隊さんよ、ありがとう」



兵隊さんでなかった国民全てにも、
「ありがとう」という言葉を捧げたいですね。



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あ、そうだわ、
家族や友人にもちょっとした慰問袋を贈るというのはどうでしょうか?



プレゼントは貰う側が嬉しいのは当然ですが、
贈る側も楽しいものですね。



贈りたい人の顔を挙げていくと、
なんだかワクワクしてきましたよ。




ではまた、ごきげんよう。。。



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posted by 八十路小町 at 23:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 昔のお話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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