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2015年04月23日

「昆虫食展」が大人気。昔はイナゴを。。。

2015.04.23.

「昆虫食展」が大人気。
昔はイナゴを。。。



なんと近年人気になってきたのが、
昆虫を食べることなんだそうですね。


兵庫県伊丹市昆虫館で開催中の「昆虫食展」が好評で、
2ヶ月で1万7千人もの来館者があったそうです。


伊丹市昆虫館

http://www.itakon.com/html/main.html


国内国外で食べられている昆虫料理を
約40種類も紹介しているそうです。


日本で昔から食べられているイナゴや蜂の子などの料理は勿論のこと、
タイやカンボジアの露店で買い付けてきた実物や写真、
その料理のレシピまでも公開、
虫が好きな人は感動しているとのこと。




ちなみによく食べられている虫の例は


イナゴ:佃煮。日本各地で食べられてきた代表的な昆虫。

ざざむし:長野県で佃煮に。苦味があってお酒がすすむ。

蜂の子:佃煮や炊き込みご飯。チーズのような味。

ガムシ:東南アジアで素揚げ。

ライチカメムシ:ラオスでは唐辛子などを加えてペースト状にして、餅米につける。

タガメ:タイでは塩焼きや素揚げ。匂いの強い雄を香りづけに。





日本各地でも、
近年では昆虫を捕まえたり、
味わったりするイベントが行われているそうです。


例えば、
「イナゴンピック」という大会があるそうですよ。


これは、
毎年群馬県吾妻郡中之条町の棚田で開催されているもので、
イナゴとり競争とイナゴのジャンプ大会などがあります。

こちらにその様子が。



第4回なかのじょうイナゴンピック(イナゴとり競争とジャンプ大会)

https://www.youtube.com/watch?v=q0KMIkpgZLg

82歳の女性が大活躍ですよ。






そうそう、
イナゴといえば、
わたくしも子供の頃のことを思い出しましたよ。


わたくしの実母は眼病を患っていて、
確か「そこひ」と言っていましたから、
今で言う「緑内障」だったのでしょうか。


イナゴは蛋白質やカルシウムなどが豊富で眼にも効くということで、
田んぼに稲が実る頃になると、
子どもたちは総出でイナゴを取っていたものです。


手ぬぐいを2つに折って縫うなどして、
布の袋を作ります。


口に竹の筒を斜めに切ったものを取り付けます。


イナゴを捕まえたら、
その竹の口から袋に入れるのです。


あの頃は農薬など使いませんでしたから、
まあイナゴも多かったこと。


イナゴは「稲子」とも書くように、
せっかく実った稲を食べる害虫ですから、
放っておいてはいけません。


どうせ退治するなら、
食べてしまおうといのは、
まさしく一石二鳥ですね。






袋にいっぱい取ったイナゴは
1日か2日、
袋に入れたままで吊っておきます。


すると、
排泄をするので、
体の中が綺麗になるもです。


そのイナゴは焙烙で煎って、
香ばしくなったところで、佃煮にします。


または、
粉にして、青のりや胡麻と混ぜてふりかけにして、
ご飯に乗せてたべます。





美味しかったか??


さあ。。。。


実は、
その頃、わたくしは本家にいたので、
イナゴを食べたことはないのです。


やっぱり、
虫ですからね、
気持ち悪いですものねえ。


でも、
兄弟姉妹たちは美味しい美味しいと
喜んで食べていましたよ。


美味しい親孝行ということでした。







実母は若い頃から「利発だ」と言われていて、
大変聡明で、好奇心の強い
行動力のある人でした。


だから、
栄養の勉強もして、
戦後の洋食なども素早く取り入れて、
誰よりも先に作っていましたよ。


体格は小柄でしたが、
「利発」を象徴するように、
おでこの広い人でしたね。


勿論、
わたくしも兄弟たちも、
みんなおでこが広いのです。


弟たちは髪の毛が後退して、
なお一層広くなっていますがねえ。













この科学の進歩の著しい時代に、
なぜ虫を食べることが見直されてきたか?


それは、
地球上に起きている様々な問題から、
食料不足が深刻になると予想されているからです。


そんな時代には、
麦や大豆など、人間の食糧にもなるものを牛や豚などに食べさせて、
その肉を食べるのではなく、
草などの人間が食べられないものを食べる虫を食べて、
肉の代わりに蛋白質を摂るほうがいいということだそうです。






「蓼食う虫も好き好き」

いや、

「虫食う人も好き好き」



わたくしとしては、
虫しか食糧がないような時代には生きていたくありません。


肉好きの夫なら、
尚更なことでしょう。


そんなことにならないように、
なるべく地球を汚さない生活を心がけたいと思います。



ではまた、ごきげんよう。。。









posted by 八十路小町 at 23:54| Comment(0) | TrackBack(0) | イベント | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年04月08日

今日は「灌仏会」ですね。ピヨ子の通った保育園はお寺でした。

2015.04.08.


今日は「灌仏会」ですね。
ピヨ子の通った保育園はお寺でした。



今日はもう4月8日、
お釈迦様の生まれた日ですね。



「灌仏会」または「花祭」ということで、
お寺でもこの日にお祭りをするところが多いでしょう。



わたくしもほんの数年前までは
毎年、近所のお寺の「花祭」に行ったものでした。



俳句を詠む友、詠まぬ友と連れ立って、
脚と口の運動をして、
あの年のあんなことがあるまでは、
楽しく過ごしたものです。








さて、
わたくしたちの家族はピヨ子が子どもの頃は
田舎に住んでいました。



駅も遠くて自転車で行く距離、
バスの停留所は村のタバコ屋さんで、
1日に数えるほどしか来なかった時代です。








そんな田舎でしたから、
ピヨ子の学校に入学前に通ったのは
お寺が経営していた保育園だったのです。



他には幼稚園もなし、
ちょっと変わり者の夫はピヨ子をずっと手元で教育したかったのですが、
やはり、
小学校に入る前には、
集団というものに慣れさせておかなくてはいけませんから、
皆の意見を聞き入れたのでした。


それで、
たったの1年だけですが、
ピヨ子はこの保育園に通ったのです。









幸いなことに、
園長さんの奥さんはわたくしの顔見知りでした。



というのも、
すぐ近所で親戚がよろず屋を経営していたのですが、
わたくしもお寺の奥さんもいつもそこで買い物をしていたからでした。



当時の田舎ではスーパーの代わりのような
なんでも売る店があったのです。



小さな店ですが、
お酒と煙草以外、
食品も日用品も農作業に使う簡単なものまで
そこに行けばあったのです。



電話もまだ珍しかった時代では、
近所の人はそこで電話を借りて遠方に電話をかけたり、
また、
遠方の親戚などから緊急の電話がかかってきた時は、
わざわざ家まで呼びに来てくれたりもしたものです。










そんなことで、
いわゆる「年長組」にいきなりピヨ子は入ったのです。



園長先生はお寺のお坊さんです。



わたくしの家とはお宗旨が違いますから、
ピヨ子も園長先生と会ったのは入園式が初めてだったと思います。



ですから、
園長先生の頭がツルツルだったことは
ピヨ子にとってはよほどの衝撃だったようですね。







そして、
入園してすぐに、
大事なお寺の行事である「花祭」が行われました。



保育園からは園児たちが列を作って、
男女で手を繋いで、
先生に連れられて歩きます。



戦後のベビーブームは終わっていましたが、
まだ子どもが多い時代でした。



園児たちは年齢によって、
4クラスもあったので、
賑やかに笑い声や泣き声を立てながら、
田んぼの中の細い道を歩いていったことでしょう。












お寺に着くと、
園長先生の奥さんが出迎えてくれました。



いつもは鼠色の背広を着ている園長先生が
袈裟を掛けた衣姿だったのも、
ピヨ子にとっては一番印象に残ったことの様子で、
帰ってから、何度も何度もわたくしに話しました。




そして、
一人ずつお釈迦様に甘茶をかけてお祈りします。



園児も引率の先生たちもひと通り終わると、
また隊列を組んで、
保育園に帰ります。



今の保育園では、
園児を2列にして歩かせるための、
握り環がついた紐があったり、
もっと小さな子は檻のようなものに入れて、
保育士が運んで行くというのですから、
なんともまあ、変わってしまったことですね。









そして、
保育園に帰ると、お待ちかねのおやつの時間です。


そこでは、お菓子と甘茶が出たそうです。


これもよほど印象に残ったのでしょう、
なんのお菓子だったかはすっかり忘れてしまったけれど、
赤いコップに入れてもらった甘茶の色と味は
今でもちゃんと覚えているそうですよ。









そうそう、
今の若い人には信じられないと思いますが、
あの頃は保育園に給食用のお米を持って行ったのですよ。



園児が自分の名前を書いた布袋にお米を
2合ずつ入れて持っていくのが
決まりになっていたのです。



勿論、
布袋はお母さんやお祖母さんの手作りでしたよ。


ここだけの話、
お母さんたちはひそひそ話していましたね。



「こんな子どもが5合も食べられるわけないよねえ。

余ったお米はどうするのかしら?」



そういった時代を、
ついつい懐かしく思い出してしまいました。











では、
「灌仏会」の俳句を。


「仏生会 」「灌仏会」「降誕会」「誕生会」
「浴仏会」「花祭」「花御堂」「花の塔」「花亭 」なども季題ですね。




灌仏や雛手を合はする数珠の音

   芭蕉


灌仏の御指の先や暮の月

   一茶


白象の糸のまなじり仏生会

   長谷川櫂 


灌仏やうぶ湯の桶に波もなし

   正岡子規


つゝじ多き田舎の寺や花御堂

   正岡子規


教職の僧に戻りぬ花祭

   粂原英雄


焼跡の天の広さよ仏生会

   深見けん二


生れし子の皆同じなり花御堂

   粂原英雄


百代の遺伝子を継ぎ花祭

   和田浩一








それから、
インターネット検索をしていると面白いことが書いてありました。


「お釈迦になる」という言い回しがありますが、
その語源は、
昔の鋳物職人の失敗から来たというのです。


阿弥陀如来像を作るつもりだったのが、
間違って、釈迦像を鋳てしまったので、
使い物にならないということです。




また、
こんな説もあります。


江戸の鍛冶職人が刃物を作るときに、
火にあぶり過ぎて鈍って、駄目になってしまったとき、
「火が強かった」と言ったのですが、
なにせ、江戸訛りがありますから、「しがつよかった」となり、
それが「四月八日だ」、
そして、「お釈迦の誕生日」という風に繋がったとか。





更に、
賭博の場面で、
負けて一文無しになることも「お釈迦になる」と言いますが、
これは、
花祭で甘茶をかけられているお釈迦様のように、
裸になってしまったことから来たとも。







わたくしはつらつら思うのですが、
お釈迦様は本当にお偉いお方で、
随分と悟りを開かれたようですが、
それは数々の放蕩をし尽くしてこそ至った境地でありましょう。



ということは、
我々凡人が出家をして、
いくら正しい生活をしても、
一生悟れるものではないですね。


というわけで、
「悟る」ことを潔く諦めたわたくし八十路小町は
今日も煩悩全開で、
楽しく生きていきたいと思います。




ではまた、ごきげんよう。。。










posted by 八十路小町 at 07:24| Comment(0) | TrackBack(0) | イベント | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年03月02日

昨日の「第70回びわ湖毎日マラソン大会 」で、ピヨ子が完走したそうです。

2015.03.02.

昨日の「第70回びわ湖毎日マラソン大会 」で、
ピヨ子が完走したそうです。


昨日は「第70回びわ湖毎日マラソン大会 」でしたね。


わたくしは趣味の会の催しに出なければなりませんから、
夫に昼食を用意して、
そして、タブレットを渡して出かけました。








趣味の会では小さな展示会をするので、
その出品の準備がなかなか大変でした。



窯の都合で、大作は作れませんから、
小さなものが多く、
それを無くさないように、壊れないように、
ひとつひとつ大事に扱わなくてはなりません。



そんな作業も手足だけでなく、
口も盛んに動かせば楽しくて、
あっという間に時間が経ってしまいます。



慌てて帰って、
玄関のドアを開けたときには、
どうにかおやつの時間に間に合う時刻。










ほっとしながら、
そっと居間に行くと、
夫はまだマラソンの観戦中でした。




この「びわ湖毎日マラソン」は
わたくしたちにとっては、また特に思い出があるのです。










というのも、
わたくしの妹のすえ子が琵琶湖の近くに住んでいますから、
何度か訪れたのです。



そして、
お祝いごとがあったときには親戚が集まったので、
わたくしたちも夫婦で招かれて行きました。



その時はちょうど桜の季節で、
琵琶湖周辺を案内してもらったのです。









「第1回びわ湖毎日マラソン」は終戦の次の年に開催された
日本最古のマラソン大会で、
国際的なレースに出る権利を得るための選考会として
大きな意味をもっています。



あのアベベが走り、
君原や宇佐美、宗兄弟、瀬古などが活躍したレースですから、
いつも話題になっていますね。



このレースはコースが少しずつ変更されたりもしましたが、
滋賀県の名所を通るので、
わたくしたちもそのコースの主な場所に連れて行ってもらったのです。



スタートとフィニッシュの皇子山陸上競技場、
浜大津から石山寺あたりまで。



そしてさらに、
琵琶湖疏水の満開の桜を見せてもらえたので、
マラソンが好きな夫も、
それほどではないわたくしもとても興味深くて、
大変嬉しかったです。








そういうことで、
「びわ湖毎日マラソン」も
夫は見逃すわけにはいかないのです。



去年の優勝者のエチオピアのバズ・ウォルクは
小さい時に左目を怪我して失明し、
義眼を入れているというハンディを感じさせない走りで、
大変感動しました。



それで、
ますます気合を入れて見ていた夫は、
わたくしを振り返ると、
待ってましたと言わんばかりに説明をしてくれました。



今年のペースメーカーはケニア人が2人で務めたのですが、
雨風の強い悪天候で道路が滑りやすく、
しかも道幅も広くないところに給水場があったりして、
足をひっかけて転倒しかねない場面が何度かあって、
そのせいもあったからでしょうか、
一人が新瀬田浄水場の折り返し地点で間違えてしまったそうです。



また、
ペース配分も難しかったのでしょう、
トップの選手に追い抜かれたりして、
見ている夫もヒヤヒヤしたのだとか。







そんな話を聞きながら、
おやつを済まし、
パソコンを開いてみると、
いつもと違う画面が出てきて、
どうにも訳が分かりません。



そこで、
ピヨ子に携帯をかけて、
教えてもらいました。







その後で、
ピヨ子が言ったのです。




「今日のびわ湖毎日マラソンは完走したよ」



「ええっ?どういうこと?」



タニタの歩数計で歩数を稼ぐのにちょうどいいからと、
タブレットで中継を見ながら、
選手と一緒に走ったというのです。



それも部屋の中ですよ。



6畳、それも関東サイズですから狭いのに、
机や本棚を置いた、その空間をグルグル走ったというのですから、
もう呆れないわけにはいきません。



「 優勝したケニアのドゥングにぴったりついて走ったからね、
2:09:08だったよ。

それでね、タニタは23816歩。

他の番組やYouTubeのテレフォン人生相談を見ながら走ることもあるけど、
10分も走ると飽きちゃう。

それが、
今日はフルマラソン完走だから凄いね。

やっぱり、一緒に走る連れがいるからだよねえ」



なるほど、
それでニタニタしているのですね。



「今まで大人しく座って見てたなんて、
なんて勿体ないことしてたんだろう。

次はどこでいつマラソンがあるかなあ?

絶対に見逃さずに走るよ。

人間、体力がないとなんにも出来ないからねえ」




そうそう、
その通りです。


わたくしも体力増強、ぼちぼち行きます。



ではまた、ごきげんよう。。。








posted by 八十路小町 at 10:42| Comment(0) | TrackBack(0) | イベント | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年02月28日

懐かしい京成電鉄最後の「赤電」がラストランだそうです。

2015.02.28.

懐かしい京成電鉄最後の「赤電」が
ラストランだそうです。




今日は京成電鉄で「赤電」と呼ばれていた車両が
引退運転をするそうです。



京成電車といえば、
上野から成田や千葉方面までかなり広い範囲まで運転していて、
わたくしたちはよく利用しました。



高架でない場所も多いので、
各駅に停る普通電車に乗ったときには特に、
道を歩く人を追い抜いたり、
田甫や畑を走り抜けたり、
民家を眺めたりしながらの
とてものんびりした電車の旅です。



真っ赤な車両や上半分がアイボリーで下半分がオレンジの車両など、
そういったいかにも郊外を走るのに似つかわしい電車でした。



それが「赤電」と呼ばれて親しまれてきた理由でしょう。








この「赤電」は
1960年に京成線が都営地下鉄1号線(今の都営浅草線)と、
全国で初めて相互乗り入れをしたときに作った車両なのだそうです。




このときの3000形が改良進化して、
3300形になったのが、
今の「赤電」です。




この3300形は、
1968年12月からの運行ですから、
今日で46年目になりますね。




昔ながらのレトロな形で、
ステンレスを使わない鋼鉄の電車ということで、
この電車をお目当てに乗りにくるファンが多かったそうです。










いつもは各駅停車の電車として、
4両2編成で運行していましたが、
今日は8両つないでの臨時特急「成田山」号になります。




午前10時23分に京成上野駅を出発、
11時39分に京成成田駅に到着後、
引退セレモニーをするそうです。




3月8日まではスタンプラリーも行われています。


詳しくはこちらをどうぞ。

京成電鉄のサイトはこちら







様々な技術が発達して、
交通も便利になりますね。



車両もスマートになり、
所要時間も随分短縮されました。



とても嬉しいことですが、
わたくしのように昭和を生きてきた世代にとっては、
少し淋しいことでもありますね。








車両の新しくなった京成電車に、
ぜひまた乗りに行きますよ。



そうそう、
京成線での旅の見どころについては
また今度書きましょう。






ではまた、ごきげんよう。。。







posted by 八十路小町 at 05:18| Comment(0) | TrackBack(0) | イベント | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年02月22日

東京マラソン2015が無事に終わりましたね。でも、ピヨ子が悲鳴を上げました。

2015.02.22.

東京マラソン2015が無事に終わりましたね。
でも、ピヨ子が悲鳴を上げました




2007年から始まった「東京マラソン」ですが、
今年のマラソンも無事に終了しましたね。







イスラム国に拘束された日本人が2人とヨルダン人のパイロットが
虐殺されるという事件があって、
いよいよ平和な日本もテロの標的とされようになりました。


そして、
今日は「東京マラソン」ともなれば、
2013年4月15日の第117回ボストンマラソンで起きた
あの恐ろしいテロが思い出されてしまいました。


その対策には「ランニングポリス」ということで、
64人の警察官がリレーで選手と一緒に走って、
警備の目を光らせました。

箱根駅伝に出場経験のある脚自慢の男性のお巡りさんや、
女性のお巡りさんも4人走ったそうです。



とにかく、
なにも起きなくて本当によかったですね。








わたくしが趣味の会に出かけている間、
夫はタブレットで観戦したようですよ。



夫はマラソンや駅伝など、
とにかく走ることが大好き。



ですから、
ピヨ子が高校時代にもよく一緒について走っていました。



そのきっかけは。。。



高校1年のマラソン大会で、
もともと数の少ないクラスの女子の中でも最下位という不名誉な成績だったので、
本人のピヨ子よりも歯ぎしりして悔しがったのです。



後から思うに、
この時のピヨ子は貧血がひどかったのです。



学校からの指示で病院に行き、
鉄剤を服用して、
それでやっと修学旅行に連れて行ってもらえたくらいでしたからね。



でも、
戦前人間の夫は根性主義ですからね、
ピヨ子にも「勉強せよ」とは一度も言ったことはありませんが、
「運動せよ」と口が酸っぱくなるほど言っていました。



それで、
日頃の運動不足こそが、
今回のマラソン大会の恥ずべき結果として、
毎夜、特訓をしたのです。



夫が仕事で出来ない時は、
わたくしが美容と健康のために一緒に走りました。



その結果、
次の年のマラソン大会にはクラスの女子で2位という成績だったので、
本人のピヨ子も夫も、そしてわたくしも至極満足で、
そのことは大学受験にも大いに役に立ったようでしたね。



まあ、
「なにをするにも体力が一番」
ということだけは確かです。









そういったこともあって、
マラソンや駅伝は絶対に見逃さない夫ですが、
「東京マラソン」ともなると、
もともと大きな目をさらに皿のように見開いて、
かぶりついて観戦しています。



それは、
行ったところのある場所、
通ったことのある道、
見覚えのある建物や景色が見られるからです。








まずは、
都庁、靖国通り、外堀通。



飯田橋の交差点は特徴的な歩道橋がありますね。



わざわざあそこに見に行ったくらいですから。



それから竹橋から皇居へ出て、
日比谷公園。



芝、品川、銀座、両国、浅草、東京ツリー。



もう何度も行った場所ですが、
それでもまだまだ寄れなかった場所は沢山あります。



そして、
ゴールの埋立地方面。



ここはまだ行ったことがないのです。



今度の東京オリンピックまでには
どうしても行っておきたい場所ですね。













マラソンにそれほど興味のないわたくしにとっての驚きは
近頃のマラソンブームと、それに登場する「コスプレランナー」という人たちです。



漫画やアニメの登場人物などの仮装をして、
普通の格好の人たちに混じって走るのだそうですね。




ピヨ子が去年の「新宿シティーハーフマラソン」をたまたま見たのに、
面白い変装をした人が大勢走っていて、
大変びっくりしたと、
興奮の口調で話していました。



「私だったら自分がそんな格好をしていると思っただけで、
可笑しくて走れないし、
周りにそんな人が見えたら、
やっぱり笑いが止まらなくなって、
走るどころじゃなくなるよ」



人並み外れてくすぐったがり屋で笑い上戸のピヨ子ですから、
それももっともなことと、
わたくしも納得いたしました。



でも、
走ることを苦行としてでなく、
楽しみに変えられるという文化は
昔は想像もしなかったことですが、
楽しくて素晴らしいことですね。









ところで、
「東京マラソン」のコスプレランナーの中でも
特に有名な人をご存知ですか?



ララバイさんというミュージシャンで、
毎年、
十字架を背負ったキリストの姿で走るのだそうです。



ところが、
今年は出場しなかったとのこと。



ご本人は理由をぼかしましたが、
規定に宗教的なアピールを禁止するという項目があったためのようです。



選りに選って、
キリストなんかの格好で走ったら、
イスラム国のテロリストを刺激してしまいますからね。



でも、
ララバイさんのキリスト姿が見たい人は世界中に沢山いるということで、
4月26日のロンドンマラソンには参加するそうです。








と、
そんな話をしていたピヨ子ですが、
突然、
携帯の向こうから悲鳴を上げました。



「あああ、しまったあああ!!!」



「あら、なあに?どうしたの?」



「せっかくタニタの歩数計を腰につけていたのに、
マラソン中継をなんにもしないで、
のうのうと見てたよ。

その場駆け足をすればよかった。

あああ、勿体無かったなあ」



タニタの歩数計を24時間身につけたピヨ子は、
洗濯をしている間も、
お茶碗を洗っている間も、
コーヒー豆を煎っている間も、
とにかく脚さえ空いていれば、
その場駆け足または足踏みをして、
歩数を稼いでは、ニタニタしているらしいのです。







時は金なり。


そして、死ぬまで青春。


さて、
わたくしもタニタをお供に、
歩数を稼ぎに出かけてまいります。



ではまた、ごきげんよう。。。










posted by 八十路小町 at 13:23| Comment(0) | TrackBack(0) | イベント | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年01月24日

松山東高等学校、正岡子規の後輩たちが82年ぶり2回目に、甲子園出場決定しました。

2015.01.24.

松山東高等学校、
正岡子規の後輩たちが82年ぶり2回目に、
甲子園出場決定しました。



愛媛県は四国の中でも一番温暖な気候と言っていいでしょうか。


そのためか、
古くから文化も栄えていて、
遺跡も多く残っていますね。







そして、
愛媛県といえば、
わたくしが一番に思うのは「俳句王国」だということ。


それは正岡子規が生まれたからで、
その出身校の愛媛県尋常中学校には
かの文豪・夏目漱石が英語の教員として赴任してきて、
それがあの名作「坊っちゃん」になったからです。


正岡子規と夏目漱石の友情については、
何年か前にNHKテレビの「坂の上の雲」でも出てきたので、
大変有名ですね。









そして、
さらに興味深いのは正岡子規が郷里に初めて野球を伝えたことですね。


1889年(明治22年)に帰郷した子規は
母校の後輩たちに「野球」というスポーツを教え、
「球技同好会」が設立されました。


それが3年後には「硬式野球部」となって、
愛媛県内では最古だったということです。


1950年(昭和25年)には、
松山商業と統合されたチームは夏の甲子園で優勝しています。


しかし、
松山商業と別れてからは、
県内一の進学校ということもあって、
なかなか野球では活躍できませんでした。









ところが、
昨年の2014年夏の県大会では、
63年ぶりに決勝戦まで勝ち進んだものの、
小松高校に敗れました。


その秋の県大会ではその小松高校に勝って、
63年ぶりに四国大会に出場できたものの、
一回戦で鳴門に敗れてしまいます。


この鳴門は昭和25年の夏の甲子園の決勝戦で
松山東に負けた屈辱を晴らしたということになります。








しかし、
その頑張りが認められて、
「21世紀枠」で選抜出場が正式に決定しました。


主催者の毎日新聞によれば、
「(選抜史上)過去最長のブランクを埋める82年ぶり2回目」
ということで、注目を集めていますね。









愛媛県立松山東高等学校
http://matsuyamahigashi-h.esnet.ed.jp/cms/


文政11年2月3日(1828年3月18日)に
藩主の松平定通が藩学を奨めるために作った「明教館」が起源で、
明治11年(1878年)6月15日に愛媛県松山中学校と改称し、
それを創立としたということです。



伝統のある学校だけに卒業生も素晴らしい人が多く、
ノーベル賞作家の大江健三郎さんもそうですね。


やはり卒業生の作家・敷村良子さんの
女子ボート部の活躍を描いた小説は映画化もされました。


そのタイトルの「がんばっていきまっしょい」は、
松山東高校で気合を入れるときの掛け声なのだそうです。












「がんばっていきまっしょい」




松山東高等学校野球部の選手たちには「文武両道」で勉強も頑張って、
東京大学の野球部に入部して、
六大学野球の連敗記録をストップしてもらいたいですね。



東京大学野球部
http://www.tokyo-bbc.net/











img_exhibi06_mo.jpg

ユニホーム姿の子規

子規記念博物館より。





まり投げて見たき広場や春の草






1886年(明治19年)から1890年(明治23年)頃、
正岡子規は上野公園博物館横の空き地で野球を楽しみ、
試合では捕手をしていたそうですね。


正岡子規記念球場」は東京文化会館の裏手にあって、
その前のベンチは散歩で疲れた脚を休めながら、
ちょっとしたおやつとお茶を楽しむには最高の場所です。


陶器市を見たあとで、
わたくしたちもピヨ子と美味しいお饅頭を食べましたよ。


上野公演の桜はまだ見たことがないので、
ぜひ見に行きたいですね。


ようし、
今日もトレーニングを、
がんばっていきまっしょい!!






ではまた、ごきげんよう。。。







posted by 八十路小町 at 17:24| Comment(0) | TrackBack(0) | イベント | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年12月20日

今日は東京駅開業100年の日ですね!イルミネーションが楽しみですね。

2014.12.20.

今日は東京駅開業100年の日ですね!
イルミネーションが楽しみですね。


日本の最も中心となる駅といえば、
やはり「東京駅」でしょうね。

その東京駅が誕生したのが、
ちょうど100年前の今日、
つまり、1914年(大正3年)12月20日です。


我が国の鉄道の始まりは、
明治5年(1872年)10月14日(旧暦9月12日)に、
新橋駅 - 横浜駅間の官営鉄道でした。

実際にはその数か月前から品川駅 - 横浜駅間で仮営業が行われていたそうですが。

鉄道は大評判となって、
線路がどんどん西の方へ伸びて行きます。


そして、
1889年(明治22年)には神戸まで全通しました。


この官設鉄道の新橋駅と、
私鉄・日本鉄道の上野駅を結ぶ高架鉄道の建設が東京市区改正計画によって立案され、
1896年(明治29年)の第9回帝国議会では、
この新線の途中に中央停車場を建設することが可決されました。


日清・日露の戦争が終わった1908年(明治41年)から、
大林組によって建設工事が本格化しました。


そして、
皇居の真正面の原野に設けられたこの新駅が「東京駅」なのです。






1919年(大正8年)3月1日の中央本線乗り入れ、
1925年(大正14年)11月1日の東北本線が乗り入れ、
など、日本中からの線路が次々と、東京駅に集まってきました。


それに伴って、
1929年(昭和4年)12月16日には、
八重洲口が開設するなどして、
駅の周辺も商業施設やオフィス街が出来、
徐々に発展していったのでした。





ところが、
1945年(昭和20年)5月25日には東京大空襲に遭って、
レンガ造壁とコンクリート造床の構造体が残っただけで、
鉄骨造の屋根は焼け落ち、
内装も大半が失われてしまいました。


そこで、
終戦直後の年末から1947年(昭和22年)にかけて修復工事を行った結果、
ほぼ現在の外観になったということです。






わたくしがピヨ子の大学受験に伴って、
上京したのが東京駅に降り立った最初でした。


この時は、
お世話になった弟とその娘が新幹線の改札口まで迎えに来てくれて、
それから電車に乗り換えて行ったのです。


そのときはもう、
なにしろ初めての東京で、
しかも大きな駅だったので、
ただただぼうっとして、
弟の背中に従いて行ったのを覚えています。





そのあと、
ピヨ子の入学、下宿探し、引っ越しなど、
何度も何度も東京駅を利用しました。


駅の構内や地下街でお土産を買ったり、
お弁当を買ったり、
かなり自由に行き来できるようにもなりました。


また、
駅の外に出て、
近くの街を歩いたり、
デパートにも行ったり、
わたくしにとっての東京駅は、
本当に魅力的な場所になったのです。






そうそう、
舅が上京した折にははとバスにも乗せましたよ。


古びた赤レンガの壁を背景に立って見送るわたくしに、
窓から大きく手を振っていた、
うれしそうな舅の顔を今もはっきり覚えています。




そのあと、
わたくしと夫はピヨ子に連れられて、
東京駅を何度も利用しました。


皇居に行ったり、
日比谷公園に行ったり、
大丸や高島屋に行ったり。


その頃の東京駅は復元工事中で、
なんとも美しくない場所だったのですが、
4年半もの大工事のあと、
昔の格調高い姿に復元されましたね。


それが、2012年(平成24年)10月1日。




わたくしたちも早速見に行きましたよ。

東京ステーションギャラリーは
本当に素晴らしかったですね。


大きな柱、
見事なステンドグラス、
行き交う人々もすっかりその風景に溶け込んでいて、
まるで美術館に展示されている名画のようです。


あんなにも昔に、
長い長い鎖国を破って新しい日本を作り上げた果敢な日本人を思い、
そして、
その素晴らしい美的センスにも酔いしれた瞬間でした。



そのあと、
丸ビルに登り、
全体を見て写真を撮りましたよ。


今年は、
「東京駅開業百年記念」の行事がいろいろと行われていますね。




東京駅のフェイスブック
https://www.facebook.com/TheTokyoStation



東京ステーションシティ
http://www.tokyostationcity.com/




テレビCM 東京駅開業100周年「100年の対比」篇
https://www.youtube.com/watch?v=PK5wXJIZivI&feature=youtu.be




今年のイルミネーションはことに話題になっていますよ。


東京ミチテラス

http://www.tokyo-michiterasu.jp/index.html

https://www.facebook.com/tokyo.michiterasu2014




今年はわたくしが骨折したりで、
この記念行事を見ることができないのが残念でした。


でも、
幸い、インターネットいう便利なものがあるのですから、
こたつにぬくぬくとしながら、
サイトや動画で観られるのがありがたいですね。


本当に、長生きはするものです。



ぜひ来年は上京して、
また東京駅、丸の内、八重洲周辺を探索したいですね。






ではまた、ごきげんよう。。。










posted by 八十路小町 at 07:27| Comment(0) | TrackBack(0) | イベント | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年11月17日

最後の横浜国際女子マラソンは凄かったですね。

2014.11.17.

最後の横浜国際女子マラソンは凄かったですね。



わたくしの夫はマラソンが大好きです。


若い頃は、
よくピヨ子といっしょに走ってやっていました。


「最初は辛かったけど、
お陰で体力がついて、
受験に勝てたよ。

人間、一番大事なものは体力だよねえ」


今でも、ピヨ子は感謝しています。


そんな夫と3人で、
最後の東京国際女子マラソンを観たこともあって、
その後継として開催された横浜国際女子マラソンも、
欠かさず、
テレビやラジオで観戦してきました。




ところが、
その横浜国際女子マラソンも、
今年が最後ということで、
夫もわたくしも
何日も前から楽しみにしていたのです。








山下公園前をスタートして、
横浜市内を複数周回するというのは
非常に珍しいコースなのだそうですね。


マリンタワー、
産業貿易センター、
横浜税関、
神奈川県庁、
中華街東門、
赤レンガ倉庫、
横浜ワールドポーターズ、
クイーンズスクエア横浜、
パシフィコ横浜、
横浜市中央卸売市場、
横浜駅、
横浜そごう、
ランドマークタワー、
横浜スタジアム、
山手トンネル、
山手公園、
山手署、
小港町、
新山下、
港の見える丘公園、



何年か前に、
ピヨ子に連れて行ってもらった場所を
選手が走り抜けます。


懐かしく思い出しながらの応援でした。











最後は山下公園を入ってから、
右にまっすぐの海沿いの道を走ります。


260m走り抜ければ、
そこはゴール。


ケニアのオンゴリと日本の田中のラストの競り合いは
本当に見応えがありましたね。


一度抜いたオンゴリを
田中が抜き返して、
たった2秒の差で優勝。



抜かれた瞬間のオンゴリの表情を見ると、
最後は精神力の問題だなあと、
実感しましたね。










国際女子マラソンは次回からの開催地は
まだ決定していないそうです。


でも、
さいたまとの声があるとかで、
わたくしもまたさいたまへ行ってみたいと
思っていますよ。











それにしても、
港の見える丘公園から見た
横浜の景色の素晴らしかったこと。


そして、
中華街で食べたあんまん、肉まんの美味しかったこと。


山下公園の
このマラソンのゴール付近のベンチで
氷川丸や大観覧車を見ながら食べた
ピヨ子手作りのパンの美味しかったこと。



本当はもっともっと見たいところがあったのですが、
時間の余裕もなく、
また今度ということになりました。



ぜひ、
また行きますよ、横浜。







そのためには、
骨折で運動不足になってしまった足腰を
しっかり鍛えなおしておかなくてはねえ。







そうそう、
最後の東京国際女子マラソンの観戦記は
またの機会に書きますよ。

どうぞお楽しみに。








ではまた、ごきげんよう。。。
















posted by 八十路小町 at 05:52| Comment(0) | TrackBack(0) | イベント | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年11月09日

今日のGoogleは「ベルリンの壁崩壊25周年」

2014.11.09.
今日のGoogleは「ベルリンの壁崩壊25周年」


わたくしはパソコンで検索をするのが大好きです。


と、
偉そうに申しておりますが、
ピヨ子からパソコンをもらった当時は
文字の入力も出来なくて、
本当にじれったく、
大変な思いをしました。


まず、
かな文字と英数字の入力の切り替えが分からず、
そして、
今度は英数字でも、
半角と全角の違いが分からず、
いちいち、
ピヨ子に携帯をかけて質問していたのです。


そのため、
ピヨ子は携帯を持つ左肘が腱鞘炎になったという始末。


いやね、
ピヨ子の左肘はもともと悪かったのです。


中学校の体育の授業で、
高跳びのベリーロールの練習をしていて、
捻挫したのですね。


なにしろ、かなり昔のことですから、
普段はどうもないのですが、
なにかの拍子に古傷が痛むということなのです。



そんな風に、
ピヨ子の指導のお陰で、
どうにか文字入力もできるようになって、
そして、
「検索」ということを覚えました。


当初のわたくしは
調べたいことが出てくると、
いちいちピヨ子の携帯に、
メールや通話で「○○を調べて」と
頼んでいたのです。


まあ、これはこれで手間が省けていいのですが、
いちいちピヨ子に頼むのも却って面倒なものですね。



それで、
パソコンの画面をあちこちクリックして、
やっと自分で自由に「検索」できるようになったのです。



それは、
わたくしにとって、
広い世界への冒険の始まりでした。


「検索」できるサイトはいろいろとあるのですが、
わたくしが一番好きなのはGoogle。


それは、
ピヨ子が愛用していて、
わたくしに最初に教えてくれたのがGoogle で、

しかも、
わたくしに作ってくれたメールアドレスが
Gmailだったからです。


最初は「グーグル」を「ゴーグル」だのと呼んで、
ちょっと恥ずかしかったですがねえ。




そして、
今ではわたくしが朝いちばんに開くのは
Googleのページ。


ここは検索するための第一歩というのはもちろんですが、
お楽しみがあるからなのです。


特別な日には、
Googleが特別な画面になり、
そこには画像や動画など、
楽しい仕掛けがあります。


今日はなんの日だったかしら?

今日はGoogleでなにか楽しいことはあるかしら?


これが、
毎朝、パソコンを開く楽しみの一つなのです。



さて、
今朝のGoogleは??


今日11月9日は「ベルリンの壁崩壊25周年」だったのですね。



25年前といえば、
わたくし八十路小町は55歳。

テレビや新聞で「ベルリンの壁崩壊」のニュースを見たのをはっきり覚えていますよ。







1961年8月13日に作られたベルリンの壁は
高さ3mで長さが155km。



その長さといえば、おおよそ、
名古屋−富山間、大阪−岐阜間、徳島−松山間、
広島−岡山間、大分−宮崎間ほどにもなるそうです。






その壁が築かれてから、
東ベルリンと西ベルリンへの行き来は
一切出来なくなり、
家族がバラバラになってしまいました。


愛する人に会うために、
その壁を突破しようとして殺された人は
136人にもなるといいます。


東ドイツは経済の発展も遅れ、
不自由な生活に我慢できず、
とうとう公然とデモをするようになって、
ドイツを統一する運動が世界中に広がっていきました。









そして、
1990年10月3日午前0時。
「ドイツ統一」


1989年11月9日の午後3時、
「旅行許可に関する出国規制緩和」の政令が出され、
翌日11月10日朝に発表されるはずが、
手違いで、
夕方には一般市民に伝わり、
何万人という大勢の市民が壁に集まっていきました。


11月9日22時30分頃、
ボルンホルマー通りの検問所には2万を超える群衆が押し寄せ、
流血騒ぎの危険を察知した検問の兵士が
独断でゲートを開放したというのです。



夜が明けて、
11月10日になると、
市民たちは手に手にハンマーやつるはしや建設機械を使って、
「ベルリンの壁」を打ち壊し始めたのでした。



その様子を伝えた映像を、
わたくしははっきりと覚えています。

あの、
世界中に沸き起こった喜びの歓声も。



詳しくは

ドイツ連邦共和国大使館・総領事館

http://www.japan.diplo.de/Vertretung/japan/ja/05-politik/25jahre-Mauerfall-2014/2014-25jahre-mauerfall.html









そのドイツと「日独伊三国同盟」を結んで共に戦った日本が
太平洋戦争に負けたとき、
日本も南北とニ分されていたかもしれませんでした。


しかし、
歴史の偶然が重なって、
そして、
多くの人の必死の努力と多大な犠牲のお陰で、
そんな悲しい事態にならずにすんだことは
本当に幸せなことです。


もしも、
あのとき日本が南北に分断されていたなら、
今のような素晴らしい発展はなかったでしょう。


あらためて、
そのことに感謝せずにはいられません。










今日もしっかり、
人生を堪能していくと、
新たな決意のわたくし八十路小町です。




ではまた、ごきげんよう。。。








posted by 八十路小町 at 06:02| Comment(0) | TrackBack(0) | イベント | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年04月16日

今年は「花祭り」には行きませんでした。その5


2013.04.16


今年は「花祭り」には行きませんでした。その5


今年は「花祭り」には行きませんでした。その4




静まり返ったお寺の境内には、
満開の桜と、
車椅子の高齢女性と、付き添いの女性、
そして、わたくしだけが残されました。


車椅子の女性が言うには、
去年までのこのお寺の稚児行列には、
ある幼稚園と保育園が参加していたのが、
幼稚園と保育園が地区再開発の影響で
遠くに移転してしまったのだそうです。

それで、
今年の稚児行列はこんなに寂しいんだとか。




わたくしたちが昔話をしていると、
そこに稚児行列が帰って来ました。



「おや、人数が少ないからって、
今年は随分コースを端折ってきたみたいだねえ」

車椅子の女性が連れの女性に言いました。




優子さんも洋子さんも、
わたくしの顔を見て、
一瞬、「あれ」という表情をしましたが、
さっさと法被を脱いでいます。


わたくしも慌てて法被を脱いで、
お寺の人に返しました。




今年の花祭りは、
見事な桜を見るために、
わざわざこのお寺に来たのですが、
予想をはるかに上回る時間を費やしてしまったので、
さっと見て帰ることにしました。




別れ道で洋子さんが言いました。


「ああ、面白かった。

でも、物凄く時間取っちゃったねえ」


優子さんも爽やかな顔で頷いています。


「小町さん、ご主人大丈夫?

遅いって、怒ってないかしら?」



「さあ。。。また来年も行くの?」

わたくしは尋ねました。



すると、
優子さんがこう言うのです。


「そうねえ。

来年はもっと違うお楽しみを探しておくわよ」


それを聞いて、
わたくしも洋子さんも
すっかり安堵の胸を撫で下ろしたのでした。






二人と別れて角を曲がると、
遠くに夫の姿が見えました。


自転車を出しています。


「おお、遅かったじゃないか。

心配して、探しに行くところだったんだぞ」


「ごめんなさい」

わたくしは甘茶とお菓子の入った袋を夫に差し出しました。



すると、
夫は嬉しそうな顔をして、
自転車を仕舞いました。



すぐ、
コーヒーを淹れておやつです。


今日の出来事を話しますと、
夫はゲラゲラ笑って、
涙まで流しています。


わたくしも
今になって話してみれば、
可笑しくて可笑しくて、
ほっぺたの筋肉が筋肉痛になりそうでしたよ。


そんなわけで、
去年の花祭りは楽しく終わったのです。



そして、
今年は?

花祭りには行かず、
他のお楽しみに決定いたしました。


それについては、
また書きましょう。


ではまた、ごきげんよう。。。










posted by 八十路小町 at 05:00| Comment(0) | TrackBack(0) | イベント | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする


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