4月19日は「地図の日」。
伊能忠敬が蝦夷地に出発した日。
今日4月19日は「地図の日」だそうです。
栄養状態も衛生環境もよくなく、
そして医学も発達していなかった古い日本では
「人生50年」と言われていました。
それが、
伊能忠敬は55歳になってから足かけ17年をかけて、
全国を測量して、正確な日本地図を作ったのです。
千葉県の佐原の名主だった伊能忠敬は50歳で隠居すると、
江戸の深川に移り住みます。
そして、
19歳も年下の高橋至時に弟子入りして、
天文学や暦について熱心に学びました。
その知識を元にして、
蝦夷地の測量を行うために、
伊能忠敬が江戸を出発したのが、
寛政12年閏4月19日(1800年6月11日)です。
近所の富岡八幡宮にお参りしての出発でした。
昔は測量技術も発達していなかったので、
最初の第一次測量(蝦夷地)のときは、
「歩測」といい、歩いて、その歩数を数えることによって、
距離を計算したのだそうです。
そのあとの
第二次測量(伊豆・東日本東海岸)
第三次測量(東北日本海沿岸)
第四次測量(東海・北陸)
第五次測量(近畿・中国)
第六次測量(四国)
第七次測量(九州第一次)
第八次測量(九州第二次)
第九次測量(伊豆諸島)
第十次測量(江戸府内)
では、
「間縄」と呼ばれる縄や、鉄鎖を使ったそうです。
でも、
なにしろ江戸時代ですから、
自転車も自動車もなく、
「徒歩」で日本中の海岸線など、
3万5000kmを踏破したのですから、
その歩数たるや、4千万歩にもなりました。
そんな偉業を成し遂げた伊能忠敬ですが、
実は、若い頃から体が弱くて、
しばしば寝込んでいたのだそうです。
それがどうやって?
と知りたいところですが、
強い好奇心と使命感などで、
体力のなさを補っていたのでしょう。
ちなみに、好んで食べていたものは、
かぶら、大根、人参、せり、鳥、卵、長いも、
蓮根、くわい、豆腐、菜、菜類、椎茸、鰹節。
更に、残された長女への手紙には
「しそ巻唐辛子を毎日食べていて、
残りが少なくなったからあれば送ってほしい」
「蕎麦を1日か2日置きに食べている」
などの記述があるそうです。
また、
豆類も好物だったそうです。
バランスの取れた健康的な食生活が
これだけの偉業を成し遂げる体にしてくれたのでしょうね。
そして、
亡くなったのは文政元年(1818年)4月13日、
満73歳でした。
お墓は上野源空寺にあり、
尊敬する師の高橋至時・景保父子の隣にあるそうです。
伊能忠敬が測量の旅に出る前には必ずお参りしていた富岡八幡宮には、
元気よく歩いているその姿が銅像になっています。
わたくしたちは富岡八幡宮に行ったときに、
この銅像はしっかり見たのですが、
近所にあるという「伊能忠敬住居跡」には寄らずに帰ってきてしまいました。
こちらのブログには伊能忠敬縁の場所が沢山載っています。
http://www.geocities.jp/kk810558/inou.htm
次にはぜひ脚を延ばしてみたいと思います。
伊能図大全【全7巻】
「地図」といえば、
いつも懐かしく思い出すことがあります。
それを今度また書きたいと思います。
ではまた、ごきげんよう。。。