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2017年12月31日

お爺さんとお婆さんが鶏の手術をしたのですが・・・。「鶏」の俳句。

2017.12.28.

お爺さんとお婆さんが鶏の手術をしたのですが・・・。
「鶏」の俳句。



もうすぐ2017年、酉年も終わりですね。



そして、毎月28日は「にわとりの日」ということで、
今日は鶏についての忘れられない思い出を書きましょう。









あれはもう半世紀以上も前のことでした。



わたくしがすぐ近くの万屋に買い物に行こうとして、
玄関を出たところ、
すぐ隣の家でなにやら賑やかな声が聞こえてくるのです。



ここは村の鍛冶屋で、
ご隠居のお爺さんとお婆さんの喧嘩のようです。



二人は近所でも有名な夫婦で、
しょっちゅう派手な喧嘩を繰り広げるのですが、
それでも本当は仲良しなのでしょう、
いつも一緒にくっついているのです。




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庭先を覗いてみると、
鶏小屋のすぐ前で、お爺さんとお婆さんが鶏を一羽捕まえて、
何やら言い合っています。



お婆さんの説明では、
鶏が餌を食べていて、その中に入っていた魚の骨を飲み込んでしまったというのです。



よく見れば、
鶏は目を白黒させながら、ヒクヒク言っています。



お婆さんが鶏を触診したところでは、
お腹に尖ったものが触れるので、
内臓に骨が突き刺さってしまって、
にっちもさっちも行かない状態だということです。



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そこで、お婆さんは手術をして、
鶏を助けてやろうというわけです。



道具は剃刀と木綿針と木綿糸です。



ギャアギャア騒ぐ鶏を捕まえて、
地面にねじ伏せて、
暴れないように押さえつけておくのは、
助手たるお爺さんの役目です。



ところが、
いざとなると腰が引けてしまうのが男の性とでもいうのか、
お爺さんは怖気づいて、目を逸してしまっています。



それをお婆さんが叱咤激励するのです。



「お爺さん、何をやっとるんじゃ。

しっかり持っておらんと!!」



いくら鶏とはいえ、
麻酔もなしにいきなり手術をするというのですから、
鶏が騒がないわけがありません。



必死に大声を上げて、
必死に逃げようとします。



それを大男のお爺さんが押さえるのですが、
どうにも上手くいかず、
小柄なお婆さんに叱られているのです。







お婆さんは鶏の腹の羽根をむしり取って、
皮膚を露出させ、
そこをメス代わりの剃刀で、真一文字に切開します。



お爺さんとお婆さんは「ああでもない」「こうでもない」と、
いちいち、大声で喧嘩しながらの手術です。



内臓を探って、
魚の骨のありかを突き止めて取り出し、
黒い木綿糸でキリキリと縫い上げて、
無事に手術は終了しました。



お爺さんが手を離すと、
鶏は何事もなかったかのように立ち上がって、
コッコと鳴きながら歩いていきました。



そして、
さっそく餌を啄み、水を飲んでいるのですから、
いやはや、お婆さんの手腕には驚いてしまいました。



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さて、
その鶏は次の日も元気に餌を食べ、
その次の日も元気に餌を食べ、
その次の日には鶏を買う人に連れられて行ってしまいました。



当時は、どこの家でも鶏を飼っていて、
卵を産ませて食べていました。



卵を産まなくなった鶏はというと、
自分の家で絞めて食べることもありましたが、
大抵はそういう可哀想なことは出来ないので、
廃鶏収集業者に買い取ってもらっていたのです。



いわゆる「鶏買い」の人は自転車の荷台に木のりんご箱を積んでいました。



りんご箱には窓があって、金網が張ってあります。



業者は家々を回っては、
そこに買い取った鶏を押し込んで行くのです。









さあ、
その頻度は年に一回か二回くらいだったでしょうか?



そう言えば、あの光景は年末だったように思います。



お爺さんとお婆さんが半纏を着ていて、
その背中が日向の陽をいっぱいに浴びて、
中の綿がふんわり膨れ上がっていたからです。



庭の一番日当たりの良い場所で、
お爺さんとお婆さんがしゃがみこんで、
頭と頭をぴったりとくっつけあって、
それであれこれと言い合って喧嘩しているのです。



結局は、「お爺さん、しっかりせんか!」なんて、
お爺さんが一回りも年下のお婆さんにとっちめられてしまうのですから、
失礼ながらも面白くて、
わたくしもついつい最後まで見届けてしまったという次第でございます。



あら、
そう言えば、わたくしたちもあのお爺さんやお婆さんの年齢に近づいてきましたよ。



あの鍛冶屋のご隠居さんのお爺さんとお婆さんは、
あの世でもきっと仲良く喧嘩をしていることでしょうね。


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では、「鶏」の俳句をどうぞ。


鶏の俳句。1
https://youtu.be/HOj3wKCCAow




おおひでり鶏がついばむ父の影

奥山甲子男



みの虫をついばむ鶏や燦として

飯田蛇笏



新米のこぼれし庭や鶏の群れ

正岡子規



鶏(とり)たちにカンナは見えぬかもしれぬ

渡辺白泉



鶏小屋は空金網冬陽を囲う

中井不二男



シューマンの流るる鶏舎夏立てり

山本文子



蛙鳴き鶏なき東しらみけり

小林一茶



脇腹に鶏を抱へてゆく九月

柿本多映



そうそう、
鶏買いさんは廃鶏を買い取ると、
注文を聞いて、ひよこを届けてくれました。



戦時中には、
家庭で兎を買うのも推奨されましたが、
それも同様に業者が回ってきたものです。



兎の話は夫の方が詳しいようですから、
また聞いておきますね。




ではまた、ごきげんよう。。。


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2017年10月23日

戦時中、国民学校の運動会の思い出。「運動会」の俳句。

2017.10.23.

戦時中、国民学校の運動会の思い出。
「運動会」の俳句。



もう10月も下旬に入り、
市場でも田舎道でも、
秋の深まりを感じさせてくれる毎日です。



この季節は特に、
わたくしの育った地域では重要な行事が目白押しでした。








先ず、10月の初旬は、
海苔の養殖のための竹を山に採りに行きます。



これはヒビと言って、
海中に立てて、海苔を付着させるためのものです。




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その作業が終ると、
氏神様の秋祭りが行われます。



秋祭りは一年のうちで最も大きな楽しみのひとつですから、
遠くの親戚もやってきて、
何日も前から準備したご馳走を食べて楽しみます。




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そして、
その翌日が、運動会なのです。



わたくしが小学生のときはちょうど戦時中だったので、
国民学校の運動会ということになります。



運動会には、家族ばかりでなく、
お祭りに来た親戚も見に行きます。



お祭りのご馳走を何段もの重箱に詰めて、
大きな風呂敷で包んで持って行くのですよ。



巻き寿司や赤飯、茹で卵、
魚や野菜料理、
茹で栗や青蜜柑も必ず持っていくものです。









学校では、運動場のトラックの周囲に観覧席用に、
ぐるりと筵が敷いてあります。



そこに父兄や観客が自由に座るのですから、
早く行かないと、良い席が取れません。



茣蓙をくるりと巻いて肩に担いで、
そして、座布団を何枚も大風呂敷に入れて、
早朝から席取りに行く役目は、
大抵はお父さんか、大きいお兄さんです。



そこに後から来た家族や親戚が座って観戦し、
お昼になると、
子供たちと一緒にお弁当を食べるのです。








運動場にはテントも張ってありますが、
本部の隣は一等席で、「貴賓席」と書かれてあります。



ここで観覧できるのはお年寄りです。



当時はなにか催しがあると、
必ず、敬老会が招待されました。



招待状を貰った老人たちは、羽織袴で正装をして、
真っ白い布で覆われた貴賓席に着き、
威厳を正した様子で、
行事を見守ってくれました。








さて、
当時の児童たちは裸足だったので、
この季節は地面が冷たくて寒かったのを覚えています。



行われた競技種目は、
先ず、徒競走、
そして、二人三脚や百足競争、
綱引き、玉転がし、
男子生徒は騎馬戦や棒倒しや瓶釣り競争やピラミッド。




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そうそう、玉入れもやりましたね。



玉は小さな手毬で、
綿を丸めて作ったボールに、赤や白の糸を巻きつけたものです。



使っていると、糸が解けたり、切れたりするので、
生徒が修理したものです。



その玉を使って、
鈴割りもしましたねえ。



そうそう、
スポーンレースといって、
木の杓子にボールを乗せて走る競争もありました。





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また、
障害物競争も忘れてはなりません。



コースの途中で網の下の潜って来たり、
梯子を潜るのですが、
高学年男子の太った子などは、
梯子が潜れないで苦労をしました。



それから、
俵の中に入って跳んでいくのですが、
これは難しくて、皆、転ぶのです。









でもやはり、
一番の人気種目は、借り物競走でしたね。



一斉に走っていくと、
そこには机があって、
封筒が並べてあります。



封筒の中には紙が入っていて、
何を借りてくるのか、課題が書かれてあります。



「お父さん」「お母さん」「赤ちゃん」
「赤ちゃんのおぶい紐」「扇子」



「○○さん」なんて、人の名前が書いてあるのを引いた人は、
「○○さ〜〜ん」と叫びながら、観客席を回って探すのです。



すると、
○○さんが「はい!!」と言って、手をあげてトラックに出てきます。



生徒がそこに走って行くと、
手を握って一緒にゴールインするのですが、
中には、待ちきれない人もいて、
借りられた大人が先に走って行って、ゴールインしてしまうなんてこともありましたよ。










運動会は父兄はもちろん、
貴賓席の老人も参加します。



走って行って、机の上の封筒を取ってゴールインすると、
その中にある紙に書かれてあるものが貰えるのですよ。



杖をついて歩く人もいて、
皆、大きな拍手をしました。



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本当に楽しい運動会でしたが、
わたくしにとっては嫌な思い出もあります。



それは徒競走です。



わたくしの兄弟姉妹は皆足が速くて、
部落リレーでも学級リレーでも選手だったので、
両親も鼻高々だったのです。



ところが、
わたくしと、すぐ下の弟とはのんびりした性格で、
足が遅かったので、
負けず嫌いの実母が悔しがって、
いつも叱られました。



「いつも後ろの方からニヤニヤ笑いながら走って、本当に恥ずかしい」



これが毎年のことだったので、
徒競走だけは本当に嫌でした。








丸々一日かけた盛大な運動会を終えると、
10月の下旬は稲刈りをして、
海苔のヒビつけをして、
冬に入るのでした。



ところが、
今では稲は早稲が多いので、
稲刈りは8月の下旬から9月の上旬に、
しかも、機械でさっさと片付けます。



そして、運動会も9月中には終えてしまう学校がほとんどですね。



「お祭り」と「運動会」と「稲刈り」が結びついた、
昔の10月が懐かしく思い出されます。



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では、「運動会」の俳句をどうぞ。



運動会の俳句。1
https://youtu.be/GLxMYIEjgU8



手をひろぐ保母がゴールの運動会

平賀節代



運動会授乳の母をはづかしがる

草間時彦



運動会蛇口一つに十の口

南みち



騎馬戦の落馬の君の無念かな

山本洋



運動会トップを走るは嫁らしき

浦田庸子



運動会跡を島の子かけまはる

平畑静塔



昔ながらの、
のどかな運動会が目に浮かびますね。



その光景の中にわたくしもいるような気がして、
なんだか若返った感じがします。




ではまた、ごきげんよう。。。


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2017年09月03日

終戦後の思い出。高校の修学旅行はアルバイトで貰ったお金で行きました。

2017.09.03.

終戦後の思い出。
高校の修学旅行は
アルバイトで貰ったお金で行きました。




先日は終戦後の修学旅行の話を書きましたが、
今日も、高校の修学旅行の思い出話をいたしましょう。



終戦のとき、わたくしは国民学校、今で言う小学校の6年生でしたから、
高校の修学旅行に行ったときは、
まだ日本は連合軍に占領されていたときでした。



それで、
色々な制度がころころと変わっていき、
とても複雑だったのです。



例えば、
学校の制度も6・3・3制になって、
しかも、一時、学区制が取り入れられたことがありましたが、
そのせいで、せっかく入試を受けて良い高校に入っても、
学区が違うということで、
違った学校へ編入させられたり人も大勢いました。



一生懸命に頑張って勉強して、
名門とされている高校に入学できたのに、
学区制になったからといって、
2ランク3ランク下の学校に移らされた人は、
学歴を書く度に恥ずかしくて怒りを覚えると、
今でも言います。



当然、その逆もあるわけでねえ。










学校の制度が急に変わるということは、
他にも困ったことが起きました。



それは、
決まった制服などが用意できないということです。



でも、
あの頃は、
日本中でものがない時代でしたから、
定められた制服や持ち物がなくても、
華美でさえなければ、みんな大目に見ていました。



だから、
兄弟姉妹や親戚、先輩などのお下がりの制服を来て来る子も多くて、
制服がまちまちでした。



要するに、
色は黒か紺、
スカートは学生らしい形のプリーツ、
襟に学校規定の白線や緑線など入ったツーピースだったら、
まあ、なんでも良かったのですよ。



革靴は言うまでもなく、
ズック靴さえ履いている子は少なくて、
下駄で通ってくる子も多かった時代です。



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さて、
わたくしの高校の修学旅行の話に返りましょう。



クラスの友人に秋子さんという長い三つ編みの可愛い子がいたのですが、
あるとき、
わたくしに遠慮がちに声をかけてきました。



「小町ちゃん、お願いがあるんだけど」



「なあに?」



「修学旅行に着て行く服を縫って欲しいんだけど」



秋子さんはお父さんが戦死をして、
お母さんと二人で細々と暮らしていたのです。



ですから、
学校に通うにも、ちゃんとした制服を用意できず、
地味な普段着で通っていました。



せっかく頑張って入った高校の修学旅行は青春の思い出になるはずですから、
お母さんも秋子さんも一生懸命に働いて、
費用を捻出して、どうにか行けることになったそうです。



だから、
できれば、洋服も新しいものを着て記念写真に写りたいと思うのは当然のことです。



でも、
そもそも物がない時代で、
洋服を買うなどということは無理な話でした。



そこで、
わたくしに縫って欲しいというのです。



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わたくしは幼いときから手仕事が大好きで、
小学生のときも、着古したシャツを解いて、
それを型紙にして古い着物からシャツを作ったりしていました。



だから、
高校の文化祭の作品展では、
自作のワンピースなどを出展して、
1年生のときから金賞を貰っていたのです。



秋子さんはそんなわたくしの腕前を見込んだというわけです。









腕前を高く評価されたことは嬉しいけれど、
自分のものなら妥協もし、誤魔化しもできるけれど、
他人のものまで満足に縫う自信はありませんでした。



そこで、
「制服なんて、縫ったことがないし、自信がないよ」
と断りました。



ところが、
家庭科で被服担当の石丸先生がわたくしを呼び、
「ぜひ、縫ってあげなさい」
と何度も言うのでした。



当時、30歳代半ばだった石丸先生はご主人を戦争で亡くして、
2人の子供を女手一つで育てていたのですが、
なにかとわたくしを可愛がってくれて、
ドレメに行くように強く薦めてくれ、
親を説得してもくれた恩師でした。



そこで、
わたくしが承諾すると、
秋子さんは翌日には風呂敷包みを持って登校して、
わたくしに渡しました。



包みの中に入っていたのは、
お父さんの形見の黒のセルの着物と、
お祖父さんの形見の喪服と、
どちらも解いて、丁寧に洗い張りをしたものでした。



わたくしはその布で、
制服に似せた感じのツーピースを縫ってあげました。



卒業した後からも、できるだけ長く着られるように、
スカートはプリーツの数を減らして、
上着のセーラーカラーは丸くしました。



そして、
白線は卒業後に綺麗に取り外せるようにと、
縫い付け方にも工夫をしました。



布は2着分あったので、
清楚で可愛いリボンつきのスーツも縫いました。





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友人はそれをとても気に入ってくれて、
お母さんも喜んでくれて、
なんとお金を持ってきてくれたのです。



わたくしは最初からそんなつもりはなかったので、
固辞したのですが、
石丸先生が「せっかく下さるというのだから、頂いておきなさい」と言ってくれて、
そのお金をありがたく頂戴しました。









それはかなりな金額だったのですが、
わたくしの母も大変喜んでくれて、
秋子さんの家にお米や野菜を持って行きました。



わたくしはそのお金で革の手提げ鞄を買いました。



ねずみ色で、金色の尾錠がついていて、
とてもお洒落なデザインで、
お店の中でも一番の高級品でしたが、
一目惚れをしたので買ってしまいました。



秋子さんとお母さんのお陰で、
そのお気に入りの鞄を持って、
お小遣いも沢山持って、
わたくしは嬉しく修学旅行に行けたのです。



秋子さんももうとっくに亡くなったのですが、
人様の笑顔がお金になったという、
あのときの嬉しく尊い思い出は、今でも忘れることはありません。




ではまた、ごきげんよう。。。








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2017年08月30日

終戦後、わたくしたちも詐欺にまんまと騙されました。その2。

2017.08.29.

終戦後、
わたくしたちも詐欺にまんまと騙されました。
その2。



終戦後のもののない時代に、
運良く現れた元洋服店主から、
とびきり上等の服地を3着分も手に入れることが出来て、
わたくしも母も上機嫌でした。



その男性二人組が立ち去ってから、
わたくしたちはその布を広げてみました。









あれえ〜〜〜っ!!



最高級のウールの、しかも紳士物のはずが、
やけにペラペラではありませんか!?



おやおや、
次々広げてみた布のどれもが、
見事にペラペラのクタクタなのです。



まさか、人絹?



そんなはずはありません。



なぜなら、
さっき、
わざわざ男性が3枚全部の布から1本ずつ糸を抜いて、
マッチを擦って燃やしてみてくれたではありませんか?



あのときの、
髪の毛を燃やしたような匂いは
今も鮮明に鼻の奥に残っているではありませんか?




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母は男性たちがしたように、
それぞれの布から糸を引き抜いて、
マッチで燃やしてみました。



あらっ、
さっきとは燃え方が全然違います。



パッと燃え上がって、紙を焼いたような匂いで、
白っぽい灰がほんの少し残っただけです。



毛織物なら、
ジリジリ縮れるように燃えて、
黒っぽい塊になるのです。









ということは、
この布は安物の人絹で、
男たちは布の端っこに本物のウールの糸を縫い込んでおいて、
それを燃やしてみせるという仕掛けで、
巧妙な詐欺を働いたということでした。



思い返せば、
布を広げて肩にかけて、顔映りを確かめさせるという、
生地屋で当たり前のことをしなかったはずです。



きちんと畳んだ布をさっさと見せるだけで、
なんとなく、
手に取ってみることが出来ないような雰囲気でしたよ。



完全に騙されたのです。



貴重なお米を沢山騙し取られてしまったのです。






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それを知った兄は布をひっつかむや、
すぐさま自転車にまたがって、
その男たちを追いかけました。



駅から歩いてきたはずですから、
今頃、駅までの道のどこかを歩いているはずです。



もし、
他の家々を詐欺行脚してから帰るにしても、
駅で見張っていれば、
必ず、捕まえることができるはずです。



というのも、
当時の鉄道は蒸気機関車だったのですが、
今のように、1日に何便もあるという便利な運行スケジュールではない、
のんびりしたものだったからです。







何時間も経ってから、
やっと兄が帰ってきました。



「あちこち探し回ったし、
駅でずっと待ち伏せしていたけど、
捕まえられなかったよ」



いかにも悔しくて堪らない表情で言いながら、
布地を渡してくれました。



自他共に「しっかり者」だと思っていた母が、
まんまと騙されてしまったのですから、
これはもう完敗です。



今になって思えば、
詐欺のやり方の教科書に出てくるような展開でしたね。



あの男たちは全国を股にかけて、
詐欺を働いていたのでしょう。





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さて、
そのときの人絹の生地ですが、
いくら安物の偽物とはいっても、
貴重な生地ですから、
わたくしはちゃんと自分で洋服を縫って、
それを着て洋裁学校に入学しました。



あのときのことで特に覚えているのは、
小豆色の細い縞模様の生地で縫ったスラックスを、
真っ赤なジャケットと合わせて着ると、
とても素敵だと、皆から褒められたことです。



その真っ赤なジャケットは、
進駐軍の奥さんが着ていたというもので、
やはり、家を回って売りに来た人から母が買ってくれたものです。



もちろん、
代金はお金ではなくて、
お米でしたよ。



当時はみんなそんな風だったのです。







それにしても、
洋裁学校に入学する前に、
誰に教わったわけでもないのに、
本を見て、自分でスーツやコートまで縫っていたのですから、
あの頃のわたくしはなんと素晴らしかったのでしょうかと、
自分のことながら、誇らしく思ってしまいます。



「本に書いてある通りにすれば、絶対にできるはず」と、
固く信じて挑戦していたのですから、
本当に怖いもの知らずでした。



国民学校のときから、
着られなくなったシャツを解いて、
それを型紙にして、
縫ったりしていましたから、
要するに、
工夫すればなんだって出来るということですね。



「足りん足りんは工夫が足りん」は母の口癖でしたが、
豊かで便利で、
お金を出せばなんでもすぐ手に入る現代に、
わたくしたちは貴重なものを失ってしまったような気もします。





ではまた、ごきげんよう。。。




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2017年08月25日

戦時中の配給の布地が出てきました。「配給」の俳句。

2017.08.25.

戦時中の配給の布地が出てきました。
「配給」の俳句。



先日は探しものをしていたら、
偶然、押し入れから戦時中の配給品が出てきました。



あれは確か、
昭和18年19年のことでした。



わたくしは終戦のときがちょうど国民学校の6年生でしたから、
小学4、5年生の頃のことです。



日本では日中戦争以降、
1938年(昭和13年)4月に国家総動員法が制定されたことで、
様々な生活必需品が配給制になりました。



それは国民に生活に最低限必要な品物が
満遍なく行き渡るようにという配慮からでした。








わたくしは地方の田園地帯で育ったので、
わたくしの実家も養家もお百姓さん、
周囲も多くの人がお百姓さんでした。



農家は自分で農作物を栽培するので、
あまり食料には困りませんでしたが、
国民のために、米穀を供出しなければなりませんでした。



それぞれの家の栽培面積に応じた量のお米やお麦を、
リヤカーに乗せて運びました。



わたくしの育った家では田圃を沢山持っていたので、
供出料も多かったけれど、
それでも残ったものも多く、
自宅で消費し、親戚や知人にも分けてあげました。



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しかし、田圃の面積が少ない家では、
気候が悪くて不作だったりすると、
自分の家で食べる分を出しても決まった供出料に達しないことも多々ありました。


ところが、中には、
本当は沢山お米があるのに、
不作で収穫できなかったと嘘をついて、
決められた量を供出しない農家もあったのです。



そういう農家では、
お米を隠して置いて闇で、べらぼうに高いお金で売るのです。



そこで、
役人たちが農家を回って、
お米を隠していないか調べるということになります。



家の納屋、床下、天井裏、押入れ、家畜小屋など、
ありとあらゆるところまで、
潜り込んで探しました。



農家でも、お米を隠すことはいけないことだとは重々承知ですが、
それでも、自分たちの死活問題ですから、
一升二升のお米を密かに渡して、
見逃してもらうということも行われていました。



いつの時代でもそうですが、
袖の下が用意できる人はまだ良いのですが、
それさえ用意できない、本当に困っている人は、
大変な困難な目に遭ったということです。



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さて、
様々なものが配給制度になって、
いくらお金があっても配給券がなければ買えない、
配給権があっても、お金がなければ買えない、
そんな時代のお話です。



あるとき、
わたくしたちの部落に配給券が届きました。



これは、規定量のお米を供出完了した家だけに権利があったので、
そういう農家の人が集まって、くじ引きをしたのです。



わたくしのいた本家が見事に引き当てました。



そして、
買えたものは、ズック靴と絹の着物地です。




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ズック靴は昭和の前半頃まで、
小学生が普通に履いていた運動靴で、
娘のピヨ子も履きました。



ただ、
わたくしの子供時代は戦時中で物資がなかったので、
材質が非常に悪かったのです。



真っ白のズック靴を履いて喜んだのは、
ほんの僅かな日々。



すぐに親指の爪で穴が開いてしまったし、
甲のゴムも弱くて、ビヨンビヨンに伸びてしまいました。




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それから、絹の生地ですが、
当時はとてもじゃないけど、
着物など着て優雅に過ごせる状況ではありませんでしたから、
そのまま押入れに仕舞っておいたのです。



それを、
わたくしが高校に入るので、
本家から実家に帰ったとき、
一緒に持たせてくれました。



わたくしはそれで何かを仕立てることもせず、
そのまま持ってお嫁入りし、
どこかに仕舞い込んでいたというわけです。



その懐かしい生地が出てきたので、
早速広げてみたところ、
着物が縫えるように裁断されてありました。



これは、そういう和服仕立てセットとして配給されたのか、
和裁が得意だった本家の従姉が、すぐに縫えるようにと裁断しておいてくれたものなのか、
今となっては分かりません。



ただ、
あの時代のものしては、本物の絹の縮緬であって、
しかし、
もの不足の時代ゆえか、厚さも幅も長さも従来にものよりは若干不足していたことだけは確かなことです。



落ち着いた色合いの黄緑地に、
白と黄土色の小菊が描かれているもので、
まさに古き時代を彷彿とさせてくれます。



このまままた仕舞い込んでおいても勿体ないですから、
これで簡単なブラウスを縫いました。



予め、水を通しておいたので、
布は縮みましたが、
その分、シボが深くなって、
汗をかいても肌に張り付かず、
とても着心地がよいものになりました。



まだ布が余っているので、
ピヨ子のブラウスを縫おうと考えています。



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さて、
少しですが、
「配給」の俳句が見つかりました。



戦後生まれの皆さん、
どうぞ、ご鑑賞くださいね。



配給の真鯉は桶に凍りけり

山本鼎



配給の酒を余さず初胡瓜

沢木欣一



砂糖配給枯野と同色妻の鉢に

金子兜太



霙るるや軽き配給米を下げ

岩淵青衣子



歳晩へ烏賊の配給ばかり続く

田川飛旅子



蔵書売り冬配給の列に入る

長田喜代治



配給の毛布一枚にくるまりぬ

近藤一鴻



白菊や炭の配給近しと云ふ

遠藤一男



配給へ春雨傘をもやひつつ

北村須起



寒明や糸の配給を少しばかり

森本泰陽



わたくしの暮らしていた田舎にも、
大勢の人々が都会から疎開してきました。



わたくしのいた本家の納屋には
養母の姉妹の家族が住んでいました



田舎と都会と、それぞれの生活が珍しくて羨ましくて、
貧しいながらもお互いが協力しあって暮らしていたあの頃が、
懐かしく思い出されます。



さて、
70年も前の布で作る正絹のブラウス、
戦争を知らないピヨ子はきっと珍しがって愛用してくれるに違いありません。



さあ、
スタンド拡大鏡の出番ですよ。



今日も暑さに負けず、
張り切って過ごしましょう。




ではまた、ごきげんよう。。。


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2017年08月18日

終戦後の思い出。お米持参だった修学旅行。

2017.08.18.

終戦後の思い出。
お米持参だった修学旅行。




夏の朝は散歩をしていると、
バス停や駅で、また、道路で大勢の児童や学生を見かけることがあります。



これは修学旅行に行くのに集合する子どもたちや帰ってきた子どもたちですね。



この季節に修学旅行があるのは、
なるべく授業に支障がないようにということと、
日が長いので、沢山の行程が組めるということですね。



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今日はわたくしの修学旅行の思い出を書きましょう。



先ず、
小学校の修学旅行はありませんでした。



というのは、
わたくしが6年生のときの夏に終戦で、
それどころではなかったからです。








中学校のときの修学旅行は県庁所在地に出かけました。



お城、放送局、温泉、そして動物園などがコースでした。



動物園と言っても、
確か、豚ぐらいしかいなかったように記憶しています。



戦時中にはどこの動物園でも、
ほとんどの動物が姿を消してしまいました。



それは、
本土決戦で猛獣が逃げ出して国民を襲うのを警戒して処分したり、
餌が無くなって餓死したからです。



だから、終戦後の動物園では珍しい動物がいるはずはなくて、
本来なら食用に回されてしまうはずの豚がいたことは、
動物園の大きな努力の賜物だったでしょう。



このときの修学旅行では、
この町にいた親戚の家に余分に泊まって、
帰りの電車で心細い想いをしたことが忘れられません。

ssweg6565_mo.JPG






そして、
高校の修学旅行は3年生の春でした。



奈良・京都に二泊三日して、
お決まりの金閣寺、銀閣寺、清水寺、法隆寺、東大寺などの名所めぐりをしました。



奈良の春日山で鹿に餌をやったことも覚えていますよ。




s54fgd_mo.JPG



ところで、
今の修学旅行と終戦後の修学旅行との大きな違いをご存知ですか?



それはね、
お米を持って行ったことです。



どこも食糧不足でしたから、
自分たちの食べる分のお米を持っていかないと、
旅館では泊めてくれなかったのです。



中学校のときはどのくらい持って行ったか覚えていませんが、
高校のときは五合のお米を白い布袋に入れて持っていきました。



お米一合は150gあって、
炊くと約330gのご飯になります。



普通のお茶碗に一杯のご飯は約150gですから、
一膳ずつ食べたら約2人分ということになります。



五合といえば、この5倍ですから、
約10人分ということになりますね。



最初の日のお昼は各自が持参したお弁当で、
その夜、
次の日の朝、昼、晩、
そして帰る日の朝と昼の合計6食分ということですね。



朝はご飯と味噌汁とお漬物、
昼は昆布のおむすび、
夜はご飯、味噌汁、野菜の煮物というメニューで、
味噌汁と言っても、小さなあられ切りの豆腐が少し入っただけの、
まるで湯のように薄いものでした。



そういう量も少なく粗末なものなのに、
お米を五合も取るなんて、
余ったお米で不当に儲けていてけしからんと、
子どもながらに憤慨していたことが忘れられません。



scx546rtr_mo.JPG




当時は、修学旅行だけでなく、スポーツなどの遠征試合でも、
お米を持っていくのが決まりでした。



というのは、
お米は配給制だったからですね。



わたくしのように田園地帯に住んでいて、
一応の食べ物には困らなかった人には到底分かりませんが、
夫などは都会に住んでいて、しかも空襲で焼き出された人たちは、
それはそれはひもじい思いをしたそうです。








今の若い人には想像もつかないでしょうが、
お米のお麦も日本人の主食となるような食料は国民に平等に行き渡るようにという目的で、
国が食糧管理制度で管理していたのです。



そして、
この制度のもとで、
1942年(昭和17年)4月1日からはお米を買うには、
「米穀配給通帳」というものがなくてななりませんでした。



戦後の復興が進んで、
お米も自由に買えるようになって、
「米穀配給通帳」も必要なくなったのですが、
1981年(昭和56年)6月11日の食糧管理法の改正により廃止されるまで、
通帳の発行は続けられました。









制度廃止に伴って、
通帳は市町村に返納することになりましたが、
義務ではなかったので、
返していない家も多いようですね。



引っ越しや大掃除をしていたら、
米穀通帳が出てきたという話を時々聞きますよ。



わたくしの家でも返納していませんから、
家のどこかに仕舞っているはずです。



出てきたら、また写真を撮って、
こちらに載せたいと思います。





scx5er_mo.JPG


それにしても、
お金さえ出せば好きにお米が買える世の中になったのは、
あの戦争で命をかけて国民が戦ったおかげです。



そうそう、
今日は我が家のお米マイスターの夫がお米を買いに行ってくれるそうです。



貴重なお米をできるだけ上手に料理して、
美味しく食べたいと思います。 





ではまた、ごきげんよう。。。


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2017年07月30日

動画を見て、昭和前半の豆の収穫作業を思い出しました。

2017.07.29.


動画を見て、
昭和前半の豆の収穫作業を思い出しました。




先日は、十六ささげを買ってきて
インターネットで色々と調べているとき、
懐かしい動画を見つけました。


それを見て、
わたくしの子どもの頃の農作業を思い出しましたよ。



わたくしの子どもの頃は大豆や隠元豆、豌豆、蚕豆など色々な種類の豆を栽培していました。



もちろん、
小豆と大角豆も栽培していました。



どちらの豆も、若い莢を食べることはせず、
実った豆を赤飯にしたり、煮豆にしたり、餡こにしたりします。


「大角豆」は「小さい豆」と書く「小豆」よりも更に小さい豆ですが、
実ったときに莢が弾けにくいので、
栽培するのに好都合だったのです。



mv54erw_mo.JPG



それらの豆は程よく実ると、
根元から刈り取って、
束にして、根元をくくり、
軒下などに干しておきます。



乾燥したら、筵に広げて、
唐棹で叩くと、豆が簡単に莢から外れてくれます。



この唐棹は見ていると面白そうで、
しかも簡単そうなのですが、
なかなか難しいものです。



子どもの頃真似をして、
渾身の力で振り回しても、
上手に回転してくれません。



大人の上手な人は、
軽い力で振るとすっと回り、
後は、何もしないでも、回り続けてくれるのです。



それで「くるり棒」と呼ぶ人もいますが、
こちらはその「くるり棒」、つまり「唐棹」を作っている動画です。




くるり棒作り Threshing tool.
https://youtu.be/A8yrXKq6Pa4



こんな簡単な仕組みの棒ですが、
地面に当たる時、非常に大きな力を発揮するので、
楽に豆が莢から外れてくれるのです。



だから、どこの国にもこういう仕掛けの農具が使われていて、
それから「梢子棍」「ヌンチャク」「フレイル」といったような武器が作られたそうです。


Arte_De_Athletica_2b_mo.jpg








さて、
そうやって莢から外された豆は細かなゴミを取り除かなければなりません。



それには、
大きな箕に載せて、揺すって、上手に放り上げると、
ゴミだけが地面に落ちて、
箕には豆だけが残ってくれるのです。




手箕による大豆の選別
https://youtu.be/O-wDq5w1RPg




この作業も見ていると簡単そうですが、
手の加減がとても難しいのです。



わたくしの養家の従姉は働き者でなんでも上手に出来る人でしたが、
今で言うところの体幹がしっかりしていて、
日本の古武術のような身体の使い方ができていたからでしょうか、
そういった作業が本当に上手でした。









手箕で揺すった後の豆には、
良い豆と悪い豆とが混じっていますから、
今度はこれを選り分けなければなりません。



手で一粒ずつ取って捨てるのは大変なことですが、
箕を少し傾けて、微妙に揺すると、
丸い豆だけが転がって落ちて、
歪な屑豆は残るのです。



手箕による大豆の選別(2)
https://youtu.be/1CKJ296oOkA




大量のお米や麦、豆などを選り分けるのは箕では大変ですから、
唐箕という機械を使いました。


木製唐箕(とうみ)ムービー決定版 飼料稲種籾の選別
https://youtu.be/TtzS9C56wK4



電気が使えなかった昔の人の知恵の結晶で、
本当に素晴らしいですね。



インターネットのおかげで、
懐かしいものが見られて嬉しいことです。



長生きはするものですね。


mfg56_mo.JPG



栄養たっぷりの豆や雑穀を美味しく食べて、
一日でも長く生きて、
沢山のものを見て聞いて、
貪欲に経験したいと思います。





ではまた、ごきげんよう。。。










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2017年06月09日

趣味の会が絵描き歌の思い出大会になりました。絵描き歌。「しーちゃんくーちゃん」。

2017.06.09.

趣味の会が絵描き歌の思い出大会になりました。
絵描き歌。「しーちゃんくーちゃん」。



先日の趣味の会の休憩時間は、
昔懐かしい絵描き歌の思い出を語りあって、
ついつい時間が過ぎてしまいました。



わたくしたちのグループは70歳代から90歳代までという、
れっきとした高齢者に属する人たちですから、
子供時代と言えば、戦前戦中戦後の時代に相当します。



この時代は色々な面で、大変大きな変化がありましたから、
同じ高齢者でも、随分と経験が異なります。



ですから、
他の人の話を聞くことは、
共感する部分も多い代わりに、驚く部分も多く、
大変興味深く、楽しいことです。





しーちゃんくーちゃん。。_mo.JPG


今回は、各自が思い出の絵描き歌を披露しましたが、
年齢が近いのに、わたくしが知らないものが沢山ありました。



そして、
わたくしが紹介したものは誰も知りませんでした。





絵描き歌。「しーちゃんくーちゃん」
https://youtu.be/vEJPrAq0Yjk



しーちゃんくーちゃん、リットルてーちゃん、
パーマネントのお嬢さん、
山越え山越えパン買いに、
ステッキついてパン買いに。



あの頃はまだ田舎ではパンは買えなかったですから、
絵本や雑誌で見て、
美味しそうだと、涎を垂らしていたものですよ。









この絵描き歌は娘のピヨ子の幼いときにも、
一緒に描いて遊んだ懐かしい歌です。



そうそう、
あの頃は「ロバのパン屋さん」も流行りました。



その話はまた今度。



そして、
友人たちの教えてくれた絵描き歌もまた今度ご紹介しますね。





ではまた、ごきげんよう。。。



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2017年05月13日

国民学校での音楽の時間の思い出。「合唱」の俳句。

2017.05.12.

国民学校での音楽の時間の思い出。
「合唱」の俳句。


先日、インターネットを見ていたら、
1911年5月8日のところに、
文部省が『尋常小学唱歌』を刊行したと書かれていました。



尋常小学唱歌は1911年から1914年にかけて文部省が編纂した尋常小学校用の唱歌の教科書ですが、
先にあった『尋常小学読本唱歌』を引き継いだものとなります。



第一学年用から第六学年用まで、
各学年ごとの冊子になっていて、
全部で6冊。



1学年ごとの収録曲は20曲ありました。



axcvgfh43iu_mo.JPG




わたくしが学校に上がったのは1941年でしたが、
ちょうど戦時中だったので、教育制度の変遷があり、
国民学校令によって設立された「国民学校」の最初の学童でした。



この法律では、
尋常小学校を国民学校初等科(修業年限6年)に、
高等小学校を国民学校高等科(修業年限2年)に改組したのです。



ですから、
わたくしは「国民学校」始まってすぐの学童ということになります。


afdcxv56565_mo.JPG




楽しかったのは音楽の時間でしたが、
確か、講堂にオルガンとピアノがあって、
そこで授業を受けました。



当時は今のような色々な楽器はなくて、
カスタネット、鈴、タンバリン、ハーモニカ、トライアングル、それにアコーディオンくらいでした。



なにしろ、戦時中でしたから、
もっぱら、先生のオルガンやピアノに合わせて唱歌を歌いました。



音楽の教科書は国民学校1年生は「ウタノホン上」、
2年生は「うたのほん下」で、
途中からは物資の不足によって、カラー印刷ができなくなり、
また、終戦後は戦争に関係ある曲は墨で真っ黒に塗られてしまいました。



桃太郎 文部省唱歌/岡野貞一
https://youtu.be/nyjc_ZhQQ4U

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戦争が終わってからすぐ、
あれは確か、すぐ下の妹が4年生のときでしたか、
合唱コンクールで代表に選ばれて、県庁所在地に行くことになりました。



そのときに歌った課題曲が「みかんの花咲く丘」だったのです。



みかんの花咲く丘
https://youtu.be/HhRnmzTvjJU




当時は制服がありませんでしたから、
出場する子たちは自分たちで思い思いの服装で、
精一杯、お洒落をしていきました。



実母が大変喜んで、
自分のモスリンの着物を解いて、
幼馴染の仕立て屋さんに頼んでワンピースに縫い直して貰いました。


それは和服だったので、
もともと地味な色だったところに、
萩の模様があるというもので、
子どもには不人気な感じの布でした。



そして、
着物を解いたものなので、生地の幅も狭いので、
形も極々簡単なものだったのですが、
わたくしは妹が羨ましくて仕方がありませんでした。



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わたくしはほんの幼い頃に本家に養女に行っていて、
東京や大阪に住んでいた養母の姉妹が大変裕福な暮らしをしていたので、
自分や娘達の着た洋服を沢山くれました。



豪華なビロードやレースの布で出来ていて、
フリルや刺繍やリボンの飾りがお洒落で綺麗なものばかりで、
それを着て学校へ行くので、
わたくしは皆から特別扱いされていました。



もちろん、実家の姉妹はそんなわたくしを見て、
大変羨ましがり、嫉妬から意地悪をされたことさえあったほどです。



それでも、
誰かのお下がりではなく、
母の愛用していた着物の生地で、自分専用に仕立てて貰ったワンピースを着て、
わざわざ見せびらかしに来た妹が
わたくしは羨ましくて羨ましくて仕方がありませんでした。



今になってみれば、
色々と事情があって、
それぞれの子どもに対して、
精一杯の愛情を持って接していたのでしょうが、
寂しくて悲しくて切ない思い出なのです。



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さあ、では、「合唱」の俳句をどうぞ。



着ぶくれて合唱団の中にゐる

   大石雄鬼



丘に消ゆ女囚の合唱冬銀座

   伊豆田立泉



春光や合唱仲間は同じ古希

   黒田隆二



さわやかに星のコーラス風露草

   大河原倫子



混声のコーラスにまた紅葉散る

   高繁泰治郎



歌うことは大変気持ちがいいことですね。



大きく長く呼吸をするのも、
健康によいことです。



口を大きく動かすので、
舌や顔の筋肉の運動にもなるので、
若々しくいられますね。



幸い、YouTubeでカラオケがあるのですから、
子どもに返ったつもりで、
懐かしい歌を歌って楽しもうと思います。


ではまた、ごきげんよう。。。





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2017年04月10日

昭和前半の兎ブーム。「兎」の俳句。

2017.04.09.

昭和前半の兎ブーム。
「兎」の俳句。


先日の朝、
わたくしがノルディックウォーキングをしていたところ、
公園で兎を散歩させているのに出会いました。



犬のような首輪をつけているのではなくて、
可愛いベストを着せて、
それに紐がついているのです。



実は、
娘のピヨ子が兎を長い間飼っていたので、
微笑ましくて、
立ち止まって見てしまいました。



兎は本当に可愛くて賢い動物で、
しかも、犬のように吠えないし、
ちゃんと飼えば、猫のように臭くはないし、
都会に暮らす人にも最適のペットですね。



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家に帰ってから、
夫にそのことを話したら、
子供時代に兎を飼っていたというので、
わたくしも子供時代のことを思い出して話が弾み、
ついつい朝食が遅くなってしまいました。



わたくしたちは昭和一桁生まれなので、
今思えば、いつも戦争の影響を受けていました。



そんな不穏な時代でしたが、
実は兎を飼うことがブームだったのですよ。



いや、「ブーム」というと単なる流行のような感じがしますから、
「奨励されていた」と言った方がいいかもしれませんね。



明治時代の末期の日清戦争から始まって、
日本は外国と戦争をするようになりました。



大勢の兵隊さんが支那や満州など寒い地域で働いていましたし、
航空兵もまた寒い上空で仕事をするわけですから、
その防寒着の裏につける毛皮として目をつけたのが兎だったのです。







兎は小さくて大人しく、
餌も特別なものではないので、
都会でも飼いやすく、
また、すぐに大人になるので適していたのです。



当時は今のような素敵なケージはありませんから、
林檎箱のような木の箱に金網を張ったりして、
手作りで小屋を準備しました。



そして、その小屋に兎を一羽ずつ入れて、
家の軒下や庭で飼うのです。



餌は野菜屑や道端や河原に生えている雑草です。



スイバ、ハコベ、オオバコ、タンポポ、ウマゴヤシ、カラスノエンドウなど、
当時は除草剤や殺虫剤を散布することもなかったので、
子どもでも安心して採ってきて、
動物に食べさせることができました。








そうそう、
兎は水を飲ませると死ぬなどという人もあって、
採ってきた草は露を落として、
日向で乾かしてからやったりもしました。



本当は兎も水をよく飲むのですが、
不潔な水を飲ませると下痢をしたりするので、
そういう噂が広まっていたのでしょう。



兎の小屋には新聞や藁を敷いてやりましたが、
今のようなケージではないので、
不潔になりやすく、
臭かったですね。



わたくしの育った地域でもほとんどの家で兎を飼っていました。



ただ、
わたくしが養女に行っていた本家では、
兎は飼っておらず、
実家によく見に行っていました。



夫は県庁所在地の都会暮らしでしたが、
やはり兎を飼っていたそうです。



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さて、
肝心の兎はどこで手に入れるかですがね、
それは兎屋という仕事があって、
その兎屋さんから買うのです。



兎屋は家家を回ってきて、
子兎を置いていきます。



その兎が大きくなったら、
子兎と交換するのです。



その際に、お金をくれたり、
兎の肉をくれたりします。



わたくしの住んでいた地域の街には、
兎屋がありました。



店先にも、店の中にも箱が沢山積んであって、
そこには兎が一羽ずつ飼われていました。



店の裏には板があって、
兎の皮が貼り付けられて、乾かされていたものです。







昔は今のようにスーパーで肉が買えるということはありませんでしたから、
兎の肉は貴重で、よい蛋白源だったわけです。



ただ、妊娠中のお母さんが兎の肉を食べると兎唇(みつくち)の子どもが生まれるという迷信があったので、
わたくしたちも食べたことがありませんし、食べない人がかなりいました。



今では胎児が兎唇口蓋裂だと分かると、
赤ちゃんのうちから手術など治療を施しますから、
傷跡もほとんど目立ちませんが、
昔はひと目でそれが分かる人が多かったのです。



そういったことと、
自分が可愛がって飼っていたものを食べるのは心が痛むので、
そういうことを話していたのでしょうね。









家庭では、
兎の他には、鶏や山羊を飼う家も結構ありました。



それも、配合飼料などという便利なものではなくて、
野菜屑や雑草を与えていたので、
経済面でも環境面でも良いことでした。




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鶏は自分の家で絞めて肉にする人もありましたが、
わたくしの実家も養家もそれは可哀想で出来なかったので、
親類のおじさんに頼んでいました。



そのおじさんは市会議員をしていた人で、
辺りでは名士だったのですが、
動物で食べられるものは何でも自分で料理して食べていたのです。



鶏や兎は言うまでもなく、
自分で飼っていた山羊も自分で肉にしてしまうのです。



そればかりか、
夏の夜には素っ裸になって川に飛び込み、
亀を捕まえては、甲羅を割って食べていたのですから、
わたくしたち子どもにとっては、
偉いけれど、少し変わり者のちょっと恐れられていたおじさんでした。


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終戦後には朝鮮人たちが暴虐の限りを尽くしましたが、
その一例として挙げられていたことは、
農家から牛を盗んで、食べたり売ったりしたことです。



わたくしたちの住んでいたところは地方の田舎でしたから、
或いは、子どもだったからか、
あまりそういうことは聞きませんでしたが、
インターネットを見ていて、そんなことがあったのかと、
恐ろしくなってしまいました。





また、
ある本では、
ベトナム人と結婚した日本人男性が、
アパートのベランダで飼っていたペットの兎を妻が頭を殴って殺して、
その肉を夕食に出してきたので驚き嘆いたということを書いてありました。



基本的に農耕民族だった日本人と他の民族との間には、
大きな隔たりがあるものだと、
つくづく思ってしまいました。




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さて、
今日は「兎」の俳句をどうぞ。



季語としての「兎」は冬の動物です。




猿どのの夜寒訪ひゆく兎かな

与謝蕪村



旅人の兎追ひ出す夏野かな

正岡子規



しぐるゝや笹原もどる兎狩

寺田寅彦



あたたかき雪がふるふる兎の目

上田五千石



はこべらや三年生は兎飼ふ

今井千鶴子



ひとつ家の枯るゝ中乾す兎皮

能村登四郎



亀は歩み兎は眠る長閑かな

尾崎紅葉



熊笹に兎飛び込む霰哉

夏目漱石



春日無心鼻おぼめかす一白兎

中村草田男



栗のいが兎の糞や所々

寺田寅彦



元日や忘られてゐし白兎

飯田龍太



ピヨ子が飼っていた兎たちの可愛い様子を思い出しましたので、
また次に書きたいと思います。




ではまた、ごきげんよう。。。



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